11代斎藤用之助(1859―1933)

鳥島の全島移住に功績
   葉隠にも名の残る斎藤用之助の11代目は鍋島直彬が初代沖縄県令となった1879年(明治12)に、二等巡査として20歳で沖縄へ渡り、 46年間を沖縄で過ごし、そのうち、1898年(明治31)から1915年(大正4)まで17年間、島尻郡長を務めた。
 11代斎藤用之助の一番の功績は鳥島移住を無事終了させたことと言われている。 鳥島とは沖縄県最北端の硫黄鳥島のことである。この島は自然環境の厳しい火山島であった。
 1903年(明治36)4月、この島の硫黄抗が爆発し、調査の結果、島民は適当な土地に移住し、万全の策をとった方が良いとなったが、 島民にとって先祖が努力して手に入れた家屋や耕地、慣れ親しんだ風土一切を捨て、未知の土地へ移住することは容易なことではなかった。 そこで郡長である斎藤用之助は、反対する島民を一人ひとり説得し、十分納得を得た上で島民大会を開き全会一致で移住を決定し、 久米島に字鳥島という自治区をつくり、集団で移住することを決めた。
 移住には100戸の家具と人口690余人の運賃、移住地に新築する各移住民家屋の建設費、移住者の生活の基礎となる耕地の購入費、 移住当日より収穫ができるまでの移住民の食料代、農業生活に必要な種子・農具及び家畜代等が必要であった。 また、移住の際には島民が代々信仰してきた神様や先祖の遺骨まで移し、1903年12月19日と翌年の2月11日の二回にわたり、 前例のない全島全部の移民が完了した。
 また、糸満市の大度浜には社団法人土木学会の土木遺産に認定された用之助港がある。 これは、1904年の大かんばつの時、斎藤用之助の発案で作られた港であるため、その名が付けられている。
 明治期に沖縄へ渡った佐賀県人は沢山いるけれども、その足跡が一番はっきりしているのが斎藤用之助である。 それは子孫の元に残されていた沢山の資料が沖縄に寄贈され、解明されてきた事と、11代用之助を良く知る甥の故大塚敏氏の証言によるところが大きい。