鍋島直彬(なべしまなおよし、1844〜1915)

初代沖縄県令 コレラ防疫
 1879(明治12)年、沖縄に県政がしかれ、政情不安な時代の初代沖縄県令となったのは、鹿島藩最後の藩主、鍋島直彬であった。
 鍋島直彬の実父鹿島藩八代藩主直永は、佐賀本藩藩主鍋島直正の実兄である。
 鍋島直彬は1848年(嘉永元)年に藩主となり、幕末期には本藩と行動をともにしていた。 1872(明治5)年には政府の命令を受け、9ヶ月間のアメリカ視察を行った。岩倉具視の推薦で県令として沖縄に派遣されたと伝えられている。
 旧鹿島藩士30余名とともに赴任した直彬の前には幾多の困難が待ち受けていた。 着任早々沖縄全域でコレラが蔓延し、6千4百人が亡くなった。
 当時の沖縄では、コレラは毎年流行する伝染病で、人々は天命と諦めていたが、鍋島直彬は徹底した防疫対策をとり、 コレラが流行すると地域を指定して、生ものの飲食や集会を禁止した。
コレラの蔓延には効果のある対策も、旧風習を無視し、生活を強制的に取り締まられることへの県民の反発は強かった。
 教育の普及は沖縄県政の重点課題であったが、教育施設はもちろんのこと、教職員が絶対的に不足していた。 本土からの教育関係者の派遣を要請する一方、県庁内に「会話伝習所」を設置し師範学校に発展させ、教員養成を始めた。
 ところが、旧琉球王府官吏及び地方役人の県政への非協力や妨害等で、2年1月あまりで、直彬は県令を辞職せざるをえず、沖縄を去る。
 しかし、それ以降も沖縄に残った佐賀出身者は多数いた。 明治中期までの沖縄県職員録等で、100名以上の佐賀出身者の名を確認することができる。
 その中には、沖縄の教育史に名を残す蓮池出身の野村成泰や、先頃、社団法人土木学会の土木遺産に認定された糸満市にある「用之助港」の発案者、 諸富出身の斉藤用之助等がいる。
 鍋島直彬が残した150点に及ぶ沖縄関係の文書は、1967年に孫の鍋島直紹元参議院議員が琉球政府に贈呈し「鍋島直彬文書」と命名され、 現在、琉球大学に保管されている。