手塚亀之助(1842−1900)

有田焼の黄金時代築く
 1616年に起源を持つ有田焼は、1650年代からはオランダ東インド会社により数百万個がヨーロッパへ輸出され、 王侯貴族の館を飾ったが、18世紀中盤に輸出は途絶えた。
 有田の焼物が再び世界の注目を集めたのは、パリ万博(1867)、ウィーン万博(1873)であった。 そこで、1876(明治9)年のフィラデルフィア万博には有田の力を結集しようと、 当時の有田のリーダーである深川栄左衛門、深海墨之助・竹治兄弟、辻勝蔵、手塚亀之助が合本組織香蘭社を結成した。 博覧会では彼等は金賞を受賞し世界のトップの座に輝いた。
 フィラデルフィアに派遣されていた手塚亀之助等は博覧会終了後、ニューヨークで市場調査を行ない、 アメリカに日本の陶磁器の販路が広く存在する事を確信し、有田での生産体制を整えるために翌年帰国した。
 手塚亀之助は、美術品は高値で販売できるが、需要の多い日用食器の供給が利益につながると考え、 国や県の援助を受けても、生産技術を革新し、会社をより強固な組織にすべきであると主張した。 しかし、社長である深川栄佐衛門は「官費頼みは弊害百出」と同意せず、1879年に会社は分裂し、 手塚亀之助等は新に精磁会社を興し、香蘭社は香蘭合名会社と名を変え、深川栄左衛門の単独経営となり、 両社は研鑽しながら明治期の有田の黄金時代をつくりあげた。
 しかし、精磁会社には度重なる悲運が襲い、十年程しか続かなかった。 手塚亀之助の長男、国一は1886年、19歳で精磁会社製品の見本を持ち渡米し、注文を取ってまわった。 精磁会社解散後は森村組ニューヨーク支店に入り、アメリカ人と結婚し、1919(大正8)急逝した。 三男米一もニューヨークで働いたが、1929年の世界恐慌で事業をたたみ帰国し、小倉で精陶商会を興した次男栄四郎の元に身を寄せた。 精陶商会も隆盛を極め、小倉の栄四郎の屋敷は広大で、テニスコートが2面あり、唐津の高取邸とよく似た造りであったという。 精磁会社の食器は現在国内にはほとんどなく、アメリカでは大事にされている。