高柳陶造(生没年不詳)

日本の工芸品 米で紹介
 高柳陶造は、久保田出身の画家で力強い筆致の山水画を残す高柳快堂の息子である。
 慶応元年頃、11歳であった高柳陶造は邑主村田若狭守より英学修行を命ぜられ長崎に遊学した。 当時、陶造の従弟で同郷の本野盛亨も聖書を学ぶために長崎に派遣されていた。
 1872(明治5)年、本野盛亨は駐英公使館一等書記官として渡英するが、同年12月にパリで37歳の本野と19歳の陶造は記念写真におさまっている。
 翌年、ウィーンで万国博覧会が開催され、これを契機に佐賀藩足軽出身の松尾儀助が起立工商会社を設立した。 この会社は美術工芸品を製造・輸出する半国営の商社であった。
 1876年の米国フィラデルフィア博覧会の翌年、明治10年に起立工商会社はニューヨークのブロードウェイに支店を開設したので、 高柳陶造は内務省官吏を辞め、ここで営業に従事。支店長は佐賀出身でエール大学出身の秀才八戸欽三郎であった。
 当時のニューヨークには商社マンや留学生など約30人の日本人がいたという。
 幕末の開国以来、西洋の人々は日本に興味を持ち、アメリカにもジャポニズムと呼ばれる日本ブームが起こっていた。 起立工商会社は日本の工芸品のなかでも品質の高いものを取り扱っていたので、アメリカ人顧客から好評を博し、日本製品の名声を高めていった。  高柳陶造は、起立工商会社閉鎖後もニューヨークにとどまり、 1896年には"Sunrise stories:a glance at the literature of Japan"という本を書き日本の物語を紹介している。 彼はアイルランド人と結婚し、妻亡き後1908年に二人の娘とともに帰国し三越の重役となった。
 海外で言葉の壁を乗り越え、日本人のコミュニティに留まることなく活動をした日本人の活躍は母国にはあまり届いていないが、彼もその一人である。
 また、本野盛亨は読売新聞の創業者の一人となり、二代目社長となった。三代目社長の高柳豊三郎は陶造の弟である。