石井 忠亮(いしい ただあきら・1840−1901)

日本の電話事業の父
  電話機は1876(明治9)年、グラハムベルが発明し、同年開催された米国フィラデルフィア博覧会に出展、金賞を受賞し大きな話題を呼び、 翌年には日本にも輸出された。
 日本の電話創業の父と呼ばれるのは旧逓信省初代電信局長の石井忠亮。 忠亮は鉄道の井上勝、郵便の前島密、電信の石丸安世と並ぶ「逓信四天王」の一人である。
 石井忠亮は1840(天保11)年、佐賀市で生まれた。蘭学を学び、佐賀藩の海軍設置に貢献し、三重津海軍所の教官を務めた。 1868(明治元)年、日本初の観艦式が大阪天保山沖で開催された時、日本の軍艦6隻とフランス海軍の1隻の総指揮官は、 佐賀藩の電流丸に乗った石井忠亮であった。
 忠亮は、その後、戊辰戦争で功績を挙げ、海軍中佐となったが、自らの希望で辞し、工部省に移籍した。 工部省は産業近代化の推進を任務とし鉄道・電信・鉱山・製鉄・造船などを管轄していた。 工部省で土木・電信の事業に関わった忠亮は、1875年(明治8年)にヨーロッパ各国の電信事情を視察し、1880年には電信局長に就任した。
 1883(明治15)年、上海に出張した忠亮は、現地の電話交換局を視察し、民間でも電話が普及している実情に驚き、 帰国後、工部卿佐々木高行に国家としての電話事業創設を建議し、その必要性を強く訴えた。 そして、紆余曲折を経て、1890年、国営電話事業が開始され、東京横浜で電話が一般にも使用できるようになった。
 使用料はかけ放題で年間40円。 これは当時の国家公務員の月給に相当する額であり、加入件数はわずか197件であったので、日本初の電話帳は紙切れ1枚から始まり、 1番は東京府、2番は逓信省電務局。ちなみに大隈重信は177番であった。
 1887年に元老院議官、1889年に和歌山県知事となった石井忠亮は、和歌山で電話事業開始の知らせを聞き、大変喜んだという。
 電話事業の管轄は逓信省、電気通信省へと移り、電気通信省は日本電信電話公社に改組され、1985(昭和60)年に民営化され、 日本電信電話株式会社(NTT)となった。