大隈重信(1838−1922)

ハンセン病患者救済にも功績
  幕末、佐賀藩の代品方として長崎と佐賀を往復していた大隈重信は、 長崎でオランダ系アメリカ人の宣教師フルベッキから新約聖書やアメリカ独立宣言を学んだ。
 国事に奔走し、実力のある重信は明治元年新政府に招かれ江戸へ上り、政治家として明治政府で実力を発揮していった。 明治15(1882)年には早稲田大学の前身である東京専門学校を創設した。
 明治34(1901)年、成瀬仁蔵から我国初の組織的な女子教育機関、日本女子大学創設の趣旨を聞いた大隈は、 女子の高等教育に日本では冷淡であるだけに大胆な企てであるが、意義が大きいと成瀬を励まし、自ら設立委員長となって計画を推し進め、 財界人に協力を呼びかけた。大隈があまりに熱心なので、早稲田がおろそかになるのでないかと、早稲田の関係者は心配したという。
 また、大隈はハンセン病患者救済のためにも大きな功績がある。 イギリス国教会伝道師のハンナ・リデルが熊本でハンセン病患者のために回春病院を設立した当初、 リデルの慈善事業には英国の親戚、知人友人からの多大な応援があった。 しかし、明治38(1905)年、日本が日露戦争でロシアに勝利すると、日本は強国になったので、今後は応援する必要はないと、 英国からのリデルへの送金が止ってしまった。
 リデルは、日本が駆逐艦一隻の費用を転用すれば、この国のハンセン病問題は解決すると大隈に援助を求めてきた。 大隈は渋沢栄一と相談し、日本橋の銀行会館でハンセン病患者救済のための講演会を開き、 万里異邦の一女子が我同胞のための事業に熱中するのは感謝に耐えない。能う限り声援すべしとリデルを応援し、 財界人にも協力を呼びかけたので、これを契機に停滞していた日本のハンセン病対策が大きく前進したという。
 大隈が中央に出て行く際、妻の美登は身を引き離縁した。 重信は明治4年、数え年9歳になった娘熊子を東京に呼び寄せ、自分の手元で教育を受けさせた。大隈の身近な友人たちは、 熊子は重信を凌ぐほどの才覚に恵まれながらも女性であったために家庭の犠牲にならざるをえなかったと懐古している。