志田林三郎(1855年〜 1892年)

今日の通信システムを予見
  19世紀後半、今日の通信システムのほとんどを予見した学者が志田林三郎である。  志田林三郎は1855(安政2)年、多久領別府村に生まれた。父は、林三郎誕生間もなく他界し、母は饅頭を作って売り、家族を養い糊口をしのいだ。
 林三郎は母の傍らで、代金の計算を身につけ、その速さと正確さは町内で評判となり、大人たちは、この子どもに算術を学ばせてやりたいと、役所に上申した。役人たちは確かに稀な子どもであるが、儒学の心得もなければ本当の役にはたたないと、現在の価値で5万円程度を毎年文房具代として数え年6歳の林三郎に与える事にした。
林三郎が本格的に学問ができるようになったのは11歳の1866(慶応2)年、多久領の学問所、東原庠舎 (とうげんしょうしゃ)に入学してからである。 漢書や史記も読みこなす林三郎の英才ぶりは佐賀藩主にも聞こえ、1870年、東原庠舎卒業後、藩費で工部省工学寮(後の工部大学校、東京大学工学部の前身)に入学することになった。ところが、廃藩置県で藩が廃止されたため送金が途絶え、就学が危うくなった。そのとき、林三郎の英才振りをよく知る鶴田皓、高取伊好兄弟が林三郎への援助を買って出た。
  当時、工部大学校の教授は優秀で熱心な外国人科学者、教育者たちで、彼らは日本に近代科学の精神と技術を植え付け、短期間のうちに工部大学校を世界的なレベルに育て上げた。 ここで林三郎は高峰譲吉と首席を争い、互いに研鑽しあい、1879(明治12)年、電信科を首席で卒業し、翌年、グラスゴー大学に留学し、19世紀における物理学の巨人、ウィリアム・トムソンの下で物理学、数学等を学び、輝かしい成績を修めた。  
 1883年、帰国した林三郎は、工部省の通信官僚となり、また初代日本人教授として工部大学電気工学科の教授を兼務することとなった。  
 1888年には、日本の電気に関する学術と産業振興のため電気学会を創設し、第1回総会で、電気学の将来の展望として、データ通信や光通信をも予測した演説を行った。  
 しかし、激務が災いし、1892年36歳で没した。若くして世を去った林三郎のことは、いつしか忘れられたが、1993年、郵政省(現総務省)は、林三郎の没後100年を記念し「志田林三郎賞」を創設し、今日の電子立国日本の出発点を切り開いた志田林三郎の名を広く世間に知らしめた。