奥村五百子(1845−1907)

戦前の愛国婦人会の象徴
  唐津湾に注ぐ松浦川下流に延長三百六間(約550メートル)の木製の旧松浦橋が架けられたのは1896(明治29)年のことである。  それ以前は渡船を利用していた。 この橋は、岸岳の木材の調達で実現したのだが、当初、和多田堤の松並木を伐採して架橋する案であったので、 反対の声が上がり、橋の話は立ち消えになった。
 そこで奥村五百子はこの難問を買って出て、代案をさぐり、岸岳官有林の杉材払下げの案を携えて上京し、榎本武揚農商務大臣に面会した。 その時の逸話がある。 五百子が、自分は相撲でも男に負けないと言うので、榎本は「それなら一度勝負したい」言ってしまった。 そこで五百子は「私が勝ったら払下げ、あなたが勝ったらそのまま」と榎本に勝負を迫った。まさか本当に相撲を取るわけにもいかず、榎本は折れたという。
 この剛毅な奥村五百子は1845(弘化2)年、唐津の高徳寺の住職奥村了寛の長女として生まれた。 了寛は京都の公家である二条家の出身で、高徳寺は幕末期にはこの地方の尊皇派の拠点となっていた。 2つ年上の兄円心も勤王党の志士として活動しており、五百子も倒幕運動に身をおいていた。
 明治維新以降は、円心は東本願寺の僧侶として布教のため朝鮮半島に渡り、五百子も同じく全羅南道の光州に渡った。 論客五百子は、宗教家であり、社会活動家でもあった。 五百子は布教の他、人々の生活を豊かにするために養蚕や米作の技術を教え、1898年には「奥村実業学校」を光州につくった。
 また、1901年、「愛国婦人会」が設立された。会の呼びかけ人には、 小笠原秀子、下田歌子、跡見花渓、鍋島栄子、津田梅子らが名を連ねているが、提唱者の五百子は会祖として別格の待遇を受け、 愛国婦人会の象徴的存在となった。 五百子の死後、いくつかの婦人組織が出来たが1942年、国内の全ての婦人組織は「大日本婦人会」に統合され、 20歳未満の未婚者以外の全ての女性が強制加入させられ戦時体制に組み込まれていった。 そのため、戦後は五百子について語られることが少なくなってしまった。