納富介次郎(1844〜1919)

工芸・工業教育に尽力
開国を余儀なくされた幕府は、遅ればせながら1862(文久2)年、国際市場の調査のために貿易船「千歳丸」で遣清使節団を上海に派遣した。 一行は水夫までいれて総勢51人。 佐賀藩からは幕臣の従者として納富介次郎、深川長右衛門、山崎卯兵衛、中牟田倉之助が参加し、同行者には長州の高杉晋作、薩摩の五代友厚もいた。
 彼らは上海に2ヶ月間滞在し、亡国の危機にある清国の実情と西欧列強の国力を目の当たりにして藩を超える国民意識を強くし、日本を取りまく情勢への危機感を抱いて帰ってきた。 納富介次郎は、小城藩の柴田花守の次男に生まれ、佐賀藩士の納富六郎左衛門の養子となり、上海を見聞したときは18歳であった。
 1869(明治2)年、介次郎は、佐賀藩が幕末から貿易推進のためにつくった佐嘉商会の顧問となり、大阪で昆布・雑貨を上海に輸出し、横浜で貿易の実務を学び、国を富ませる貿易品は何かと考えた。 そこで彼は、生糸、茶、織物など原料の貿易は資本力さえあれば誰にでも出来ることと考え、普通の商人ではできないことを模索し、日本人が手工芸にたけていることに注目し、美術工芸品や各種雑貨の貿易を目指した。
 1873(明治6)年に開催されたウィーン万国博覧会のテーマが「デザイン」で、これに対応する日本語が緊急に必要となった。 その際、画家出身の官僚であった介次郎が「図案」と造語した。 現地に派遣された介次郎は万博終了後、伝習生としてボヘミア(現在のチェコ)の製陶所で技術を習得し、ヨーロッパの工業を視察して帰国した。 1876年の米国フィラデルフィア博覧会にも事務官として現地に派遣され、審査官に任命された。
 しかし、介次郎の主眼は日本の産業技術の向上にあった。 官を捨て工芸・工業教育の必要性を主張し、石川県立工業学校、富山県立工芸学校、香川県立工芸学校、佐賀県立有田工業学校を次々と設立。数多くの工芸家・美術家を育てた。
 幕末の納富介次郎の上海見聞録「上海雑記」は1946(昭和21)年に「文久2年上海日記」に収められ、はじめて世に出た。