野中元右衛門(1812〜1967)

各種産業の発展に貢献
 日本が初めて参加した国際博覧会は1867(慶応3)年のパリ万博である。 この時、幕府の出品参加の要請に応じたのは薩摩藩と佐賀藩だけであった。 佐賀藩からは小出千之助、佐野常民、藤山文一、深川長右衛門、野中元右衛門が現地へ派遣されたが、野中元右衛門はパリに着くや否や客死し、ペールラシェーズ墓地に葬られた。
 元右衛門は1812(文化9)年に生まれ、その前半生は母の実家である佐賀城下材木町の烏犀圓本舗の、七代目野中源右衛の補佐を余儀なくされた。 長崎に出て貿易に従事し、佐賀藩の代品方に接近して用達商の一人としての目覚しい活躍が始ったのは彼が45歳の頃からである。
 当時の藩内には輸出向けの物産は少なく、商売はほとんど輸入であったため、佐賀藩が長崎警備上必要とした巨額の海軍費、軍艦代の支払いは困難を極めていた。 藩主鍋島直正は熟考の末、従来のオランダ相手中心を改め、英米各国との取引を促し、藩内には各種産業の勃興を期待した。 この時、最も活躍したのが野中元右衛門であった。
 彼は最良の釉薬が取れる日向の深山に産する柞灰(いすばい)と薩摩の堅炭を輸入し、有田焼の品質を高め輸出した。 当時、古川彦兵衛という卓越する才智と策略で五島沖で密貿易を行なう巨商がいた。 元右衛門は大隈重信らとともに、多くの人から敬遠されていた彦兵衛に接近し、師と仰ぎ長所を取り入れ短所を補い、富を蓄積した。 そして藩に多額の献金をしたため、士分に取り立てられた。 一方嬉野茶の販路拡張も計った。 元右衛門の没後、1873(明治6)年のウィーン万博に茶商として参加した松尾儀助が、大恩人である元右衛門の墓参りにパリへ行ったところ、墓は壊れていた。 1871年のパリ市民の蜂起により樹立した革命政府パリ・コミューンが瓦解する時、ペールラシェーズ墓地で大規模な戦いがあったためである。 儀助は墓を大理石で再建して帰国した。
 佐賀大学正門前にある善定寺には野中古水(元右衛門)の顕彰碑があり、隣にある野中家の墓には遺髪が納められている。 また、武雄市の如蘭塾の設立者野中忠太は、元右衛門の孫に当たる。