野村成泰(1854−1926)

沖縄の教育史に名残す
  沖縄の歴史は浅薄な知識では語れない。 中国をはじめ日本・朝鮮・東南アジアの国々と外交や貿易を展開し、海洋王国としての発展を遂げた琉球王国は1609(慶長14)年、 薩摩藩に攻められた。 それ以降、薩摩藩の管理下で徳川幕藩体制に組み込まれながら、琉球王国として中国の皇帝に表敬し、 忠誠を示すという日本の他の地にはない複雑な歴史があった。
 1879(明治12)年、沖縄県となり、政情不安な時代の初代県知事として配置されたのは佐賀鹿島藩の鍋島直彬であった。 鍋島直彬は、旧鹿島藩士三十余名とともに沖縄へ渡った。また、直彬の妻は蓮池藩の8代藩主鍋島直與の娘葛子であったので、 葛子の実兄で蓮池藩家老の石井忠躬をはじめ旧蓮池藩士も鍋島県政を支えるために沖縄へ渡った。
 教育の普及は鍋島県政の重点課題であったが、教育施設はもちろんのこと、教職員が絶対的に不足していたので、本土からの教育関係者の派遣を要請した。 これに応え、野村成泰は教育に従事する目的で沖縄へ渡り、明治14年4月に宜野湾の普天間に開校された中頭小学校の教員となった。
 初等教育が始まった当時、各小学校には本土出身の教員を必ず1名配置することが義務付けられていたが、本土とは気候風土が著しく違い、 師弟間の言語も十分に通じない状況の中で、本土からの教員はなかなか定着しなかった。 そのため野村成泰は新たに本土からの教員が来るまでの間、複数の学校を掛け持ちしていた。
 教育熱心な野村成泰は、1905(明治38)年に沖縄では初めて文部大臣から表彰され、大正3年に勇退した時には、 見送りに各所から集まった人が道にあふれていたという。
 退職後は蓮池に戻り、沖縄風の暮らしを楽しんだ。 野村成泰は沖縄の教育史に残る教師として知られ、宗眼寺にある野村家の墓を沖縄から訪ねてくる人もある。 また、「久米島めぐりの歌」など赴任の先々で歌を作った教師、本山万吉も蓮池出身の人である。