鍋島直與(なべしまなおとも・1798―1864)

海外の技術を研究
 幕末の佐賀の歴史は佐賀本藩を中心に語られることが多く、鍋島直正の名君ぶりは良く知られているが、佐賀藩の支藩の一つ蓮池藩にも名君鍋島直與がいた。 直與は、鍋島直正の叔父に当り、蓮池藩の八代藩主である。
 蓮池藩は5万2千石。館は現在の佐賀市蓮池町にあったが、領地の多くは塩田、嬉野方面に広がり、両地は佐賀江、有明海、塩田川で結ばれていた。 支藩は一国一城令によって城を持てず本藩の家臣と位置づけられ、藩の独自性は制限される一方、参勤交代や公共事業などの負担は重かった。
 藩財政が窮乏していた1816(文化13)年、直與は藩主となり、藩財政の建て直しに取り組み、倹約を奨励し、理財に意を注ぎ、 賞罰のけじめを厳正に確実に行ったため藩内の気が引き締まり財務状況も好転した。
 また、西洋の砲術を学んだ高島秋帆の子・高島浅五郎を招き大砲製造にあたらせ、多くの蘭書を翻訳させたり、 長崎で蘭学を学んだ佐賀蘭学の祖・島本良順を侍医として招くなどして、海外の技術を研究し、知識を吸収する直與は「蘭癖大名」と評された。
 1842(天保13)年、幕府は直與の実力を高く評価し社寺奉行に推したが、本藩の強硬な反対にあい、直與は就任を辞退した。 そして、1845年長男・直紀に家督を譲って隠居し、直紀を助けて藩政に関与した。
 現在蓮池公園内に建つ、「帰田之碑」は隠居した直與が塩田から大石を運ばせ自らの心境を綴った漢詩を刻ませたものである。
 ところで、現在佐賀県立博物館の玄関ホールに据えられている青銅製のモルチール砲2門は、戊辰戦争の折に蓮池藩が持参したもので、 数年前東京で発見されたものと聞く。 1門はオランダで1819年に鋳造されたもので、もう一門も同型で「冠軍」とあり、蓮池の文字が刻まれている。 冠軍とは中国語で最も偉い将軍の意味があるという。
 直與の娘葛子は鹿島藩主であり、初代沖縄県令となった鍋島直彬の妻となった。 直與の息子で蓮池藩家老であった石井忠躬は義弟を援助するために直彬に同行し、宮古島を担当した。