中牟田倉之助(1837−1916)

幕府の上海派遣団に参加
  中牟田倉之助は、藩校弘道館で儒学、数学を学び、選ばれて蘭学寮へ転じ、1856(安政3)年20歳で長崎海軍伝習所へ入所し、得意の数学を生かして航海術を学んだ。
長崎海軍伝習所では、オランダ海軍の航海術書を使って教えていた。その内容は航海術に必要な代数、幾何、三角関数などがあり、それまで学んできた和算とは全く概念が違い難解であった。熱心に学ぶ中牟田は、オランダ人教師が帰るのを門の外で待ちかまえて専門書を借り、下宿で書き写して勉強したという。
 1862(文久2)年、幕府は外国貿易を模索し、試験的に通商を行う目的で貿易船千歳丸を上海に派遣することとなり、中牟田は高杉晋作や五代友厚とともに派遣団の一員に選抜された。
 千歳丸出航の時、長崎では麻疹が流行し、中牟田も高杉も罹患したが、外国を見る千載一遇のチャンスを逃すまいと病を押して乗船した。 高杉晋作の日記には「中牟田は航海術を心得ており、英語もできる。長崎と上海を結ぶ航路を調べるようだ」と書かれており、二人は特に気が合ったという。
  当時の上海は英・仏・米をはじめ諸外国の租界が広がり繁栄し、欧米諸国の商船や軍艦で港は埋め尽されていた。しかし、税関である江海関は外国の管理下にあり、清国が欧米の植民地となりつつある実情を知った。ともに20代半ばの中牟田と高杉は約2カ月間の上海滞在中行動をともにし、中牟田が米英国人と、高杉は筆談で中国人と会話し共同で情報収集に努めた。このときの見聞録として、中牟田は『上海行日記』、高杉は『游清五録』を残している。
 精力的に視察した中牟田が持ち帰った書籍や短銃は、佐賀藩の科学技術への関心をさらにかき立てることになった。
 中牟田は三重津海軍所で佐賀藩海軍方助役を務め、戊辰戦争、西南戦争での功績により、海軍中将に昇進し、海軍大学校長や枢密顧問官も務めた。日清戦争直前には海軍軍令部長を勤めていたが、徹底した非戦派であったため解任された。
  厳格な一方で、面倒見がよく、部下からは慕われていたという。