村田若狭守政矩(1814−1873)

「聖書」の翻訳に励む
 1854(安政元)年、佐賀藩が長崎警備に当っていた時に英国の軍艦が長崎港に停泊した。
 その時、佐賀藩士の古川礼之助が波間に漂う物を拾い上げ、村田若狭守政矩に届けた。開いてみるとそれは油紙に包まれた外国の書物であった。
 若狭は深堀鍋島家の鍋島茂辰の二男で、肥前久保田領1万3千石の邑主である村田家を継いでいた。 邑主となっての若狭は干拓で良田を広げ、藩主鍋島直正、直大親子の信任を得ていた。 また、蘭学を修め、種痘を奨励し、銃砲製造所を創立するなど、西洋通であり科学好きで蘭癖として知られた人物でもあった。
 若狭は持ち込まれた本に非常に興味を示し、オランダ通事に内容を確認したところ、英語訳聖書であることがわかった。
 若狭は佐賀に戻ると、医者の江口梅亭を長崎に派遣し、問題の書物について色々と調べさせた。 梅亭は長崎に滞在していた宣教師フルベッキに会い、聖書は既に漢文に訳されていることを知り、漢訳聖書を手に入れ、若狭に届けた。
 若狭は漢文に訳された聖書を読んでみたものの内容が理解できず、自らは家老のために自由に身動きできないので、 江口梅亭、本野周蔵、綾部三左衛門を長崎へ派遣し、フルベッキに学ばせ、彼らから間接的に聖書を学んだ。
 そして、聖書を手にしてから12年後の1866(慶応2)年、フルベッキを訪ね、洗礼を受けたいと申し出た。 当時はまだキリスト教は禁じられていた。 受洗により地位や財産を失い、近親者にも過酷な迫害が及ぶ可能性があったためフルベッキは受洗を思いとどまるように促したが、 若狭の決意は堅く、日本で2番目の受洗者となった。
 その後、藩主鍋島直大に寛大な隠居の処分を下された若狭は、久保田村で、『聖書』の日本語訳に励んだという。
 1873(明治6)年、59歳で没し、村田家の菩提寺久保田町徳万の大雲寺に葬られた。 墓前の燈籠の火袋の墓側は十字の模様となっており、これはキリスト教とのかかわりのためであろうか。