犬塚美登(1843−1912)

離別選んだ大隈重信の先妻
  犬塚美登は大隈重信の先妻である。重信25才、美登20才の1963(文久3)年に娘熊子が誕生している。 明治維新の際、大隈重信の有能ぶりはよく知られていたので、重信は選ばれて政府に召し出され、1868(明治元)年に中央へ上り、 国政に当たることになった。このとき美登は重信と離別する道を選んだという。
 重信の母三井子は、重信上京後自らも上京し、築地の大隈邸の様子を見、重信が新たに妻にしたいという綾子に会った。 そして、綾子が重信の妻となることを納得し、一旦佐賀に戻って、美登の離縁と再婚の話しをすべて処理し、 数え年9歳になった熊子を連れて東京に移り住んだことが、昭和9年に発行された『大隈熊子夫人言行録』の中に書かれている。
 美登が再婚した鹿島藩士犬塚綱領は草場佩川や広瀬淡窓等に学び、槍術にも長け、書画彫刻に巧みであったという。 また犬塚家は鹿島市浜にあり、御茶屋と呼ばれ、本藩藩主が長崎往来の時、休憩所として使っていた。 美登は綱領との間に一男二女をもうけた。
 美登は佐賀藩士江副道保の娘であり、5歳年下の弟廉蔵は、大隈らが長崎で開いた佐賀藩英語塾「致遠館」で学び、 明治の頃、輸入煙草で財を成した実業家で、大隈とは終生親交があった。 佐賀城下の御屋敷目録では佐賀市鬼丸宝琳院小路に江副道保の屋敷があるが、佐賀藩の飛び地である鹿島市音成にも屋敷があったようで、 江副の屋敷跡に建つ家は、現在でも江副の屋号で呼ばれている。
 再婚後の美登は、多くを語らず家事や子どもたちの養育に熱心だったそうだ。 ところで、戸籍法の制定は1871(明治4)年であるから、それ以前の重信と美登の結婚、離婚の時期ははっきりとはわからない。 また、離縁後の美登と熊子は会うことはなかったようだが、鹿島市在住の美登の曾孫の下からは、美登の写真と成長した熊子の写真が一緒に出てきており、 互いの様子は知り得ていたと思われる。
 当時の家族や夫婦のあり方は、今日から見れば理不尽なこともある。美登の100回忌にあたる今年、縁者が集まり、美登を偲んだ。