豆田三兵衛丘由(1807−1884)

明治初年の上海を紹介
  豆田三兵衛丘由は鍋島閑叟側近の古川松根の義兄で歌人である。 丘由は1868(明治元)年8月から10月にかけ上海に亡命し、当時の上海の様子を書き残している。
 幕藩体制崩壊の激動期に、京都から故郷佐賀に帰ってきた丘由は、 唐津高島から石炭とスルメを積込んで上海に向かう大木丸に仲間とともに乗り込み上海へ渡った。 当時の上海は、南京条約により開港され24年が経過していた。
 丘由の記録によれば、上海には24カ国が西洋人館を建て、これに日本の肥前の館を加えて25カ国の館があった。 日本は上海に近い処では2、3番目だが館の小ささは第1番。 しかし、わずか三人の店員で一日の売り上げは40両。もし、ここに日本の産物を数多く並べ、20人で商いをするなら日本は3年以内に富国になる。 商法には損得があるが、ここ上海への出品には損することなく利益ばかりで、日本館名を三松号というとある。
 亡命中の丘由は、中国芝居(京劇)や異人芝居(オペラ)を見物し、上海各地を見聞して回ったようだ。 また、三松号庭前に涼台を置き貿易品の赤い絨毯を敷き、背面に2枚折金屏風を立て、 亡命にも持っていった宮中位階服を着て撮影した硝子板の写真を土産に持ち帰っている。
 ところで大木丸とは、長崎に「佐嘉商会」を設立し、肥前の焼物の直輸出の道を開いた有田の久富与次兵衛の息子与平が、 小城藩に建言して購入させ、自ら操った400dの英国船である。久富の後は同じ有田の田代紋左衛門が肥前の焼物貿易を独占していた。 このころ、オランダ領事の斡旋で英租界に佐嘉商会上海支店が開かれているので、三松号とはその店かもしれない。
 現在上海で、日中関係史を研究する陳祖恩氏は、上海に最初にできた日本の商店は、長崎の田代源平が英国領事館の後ろに建てた「田代屋」で、 主に上海で生活する西洋人に、有田の焼物を売り、旅館も経営していたと言っている。
 佐嘉商会上海支店、三松号と田代屋の関係が気になる。