久米邦武(1839−1931)

「米欧回覧実記」を執筆
 明治新政府は、欧米諸国から近代国家建設の方法を学ぶために、政府のトップや留学生を海外に派遣した。 これが、フルベッキが大隈重信に提言し実現した岩倉使節団である。
 1871(明治4)年11月、日本を出発した岩倉具視を正使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の4人を副使とした使節団一行は、世界を一周し、1年10ヶ月後の1873年9月帰国した。
 佐賀藩出身の久米邦武もこの視察団に随行し、その報告書『米欧回覧実記』を執筆・編集した。 これは、挿絵入りの全5冊の本として1878年に刊行され、ベストセラーとなった。
 明治政府は、久米の功労に対し、当時としては破格の500円の褒賞金を与えた。 久米はこれを元手に、目黒に5000坪の土地を買い別荘を建て、余ったお金で息子桂一郎をフランスに留学させ、絵画を学ばせている。
 また、帰国間もないころ、久米は旧知の有田の八代深川栄左衛門に「欧米にはカンパニーというものがある。 同志で資金を出し合い、一個人では成し得ない大きな事業を行うためのものだ。 近年、欧米の産業が急発展したのも、このカンパニーが原動力である。」と土産話をし、 「来る米国建国百周年記念のフィラデルフィア万博に、有田の力を結集してみてはどうか」ともちかけた。
 これを聞いた栄左衛門は有田の仲間たちと合本組織香蘭社をつくり、博覧会に出品し、アメリカで有田の焼き物が大好評を得ることとなった。
 1891年(明治24)には「神道は祭天の古俗」という論文を発表し、神道家や国家主義者から強い非難を浴び、帝国大学教授を辞した。
 その後、悠々自適の研究生活を送っていたが、後に東京専門学校(早稲田大学)によばれ、再び学究生活を送ることとなり、1931(昭和6)年、93歳で世を去った。
 久米邦武が手に入れた土地の一角、東京目黒の駅前には、現在、久米ビルが建ち、その8階にある久米美術館には、久米父子の作品や資料が展示されている。