大隈熊子(1863−1933)

高い見識で父重信を支える
 大隈熊子は佐賀が誇る偉人の一人、大隈重信の娘で、母は江副廉蔵の姉美登である。
 幕末に活躍の目覚しかった重信は、明治元年に新政府に請われて上京した。
このとき美登が佐賀に残ることを決意したため、重信は上京の翌年、旗本の娘三枝綾子と再婚した。
 重信の母三井子は、美登を鹿島藩御茶屋敷の犬塚綱領と再婚させた後、数え年9歳になった熊子を連れて、長崎からアメリカの汽船に乗って東京へ向かった。 以降、熊子は重信夫妻のもとで伸びやかに成長した。
 1879(明治12)年、熊子16歳で南部英麿を婿養子に迎えるが、1902(明治35)年、事情があって(英麿が保証人となり多額の借金を背負ったため)離縁せざるを得なくなった。 以降も熊子は大隈家にとどまり、重信夫妻を支え、同時に広く万人への心配りを忘れず一生を過ごしたという。
 熊子は1933(昭和8)年、70歳で亡くなったが、自分に関する資料一切を破棄、何も残していなかったという。 残念に思った人たちが、熊子の記録を百年後に伝えようと、熊子に関することを収集し『大隈熊子夫人言行録』をまとめ、亡くなった翌年発行した。
 熊子は政治、芸術、社会全般に対し高い見識をもっていたようで、犬養毅は「男であろうものなら老侯(重信)よりは偉かったろう。 政治家としても実業家としても大きなものになったろう」と語っている。
 才覚に恵まれながら女性であるがために家庭の犠牲になった熊子に、周辺の多くの人々が同情を寄せるとともに、熊子の生き方を女性の美徳とも考えていた。
 大隈重信は女性も大いに才能を開花すべきと考えていた。 例えば日本女子大学創立に際して、同大学の創設者となる成瀬仁蔵を励まし、女子の高等教育機関を創る意義は大きいと自ら設立委員長となり、早稲田がおろそかになるのではないかと周りが心配するほど熱心に計画を推し進めている。 その胸中には、熊子への思いがあったと考えられる。