小出千之助(1832−1868)

英学導入の基礎を築く
 18世紀後半、ヨーロッパでは産業革命が起り、西洋諸国は急速に近代化し、資源と市場を求め世界各地に進出をはじめた。 長崎で中国・オランダとのみ交流し貿易をしていた幕府は、通商や国交を求めて日本近海に出没する欧米諸国と条約を結ばざるを得なくなった。
 1860(万延元)年、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府は正式に遣米使節団77名を派遣することとなった。
 佐賀藩蘭学寮でオランダ語を修めた小出千之助は、語学力を認められ、小池専次郎光義の名で幕府従者として一行に加わり、 米国政府が提供した軍艦ポーハタン号に乗り込んだ。他に島内栄之助や川崎道民など佐賀藩からは総勢7人が参加していた。
 この時、護衛と遠洋実習を兼ねて、勝海舟や福沢諭吉、中浜万次郎らを乗せた咸臨丸がサンフランシスコまでポーハタン号に随行した。
 咸臨丸と別れた使節団は、パナマ地峡鉄道で大西洋側に出て、ロアノーク号に乗り、ワシントンで批准書を交換。 一行は休む間もなく、ワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークを視察して回り、帰途はナイアガラ号に乗り喜望峰経由で帰国した。 地球を一周した彼らは、日本と列強との科学技術の差を強く意識した。 また米国滞在中、幕府の通詞も英語をほとんど理解する事はできなかった。
 小出千之助は、もはや世界に通ずる言葉はオランダ語ではなく、英語であると痛感し、 帰国後、佐賀藩蘭学寮頭取をしていた大隈重信に英学の必要性を熱く語った。
 1865(慶応元)年、大隈重信は小出千之助に相談し、長崎で新たに英学塾を開き藩内外の英学希望者を受け入れることを計画した。 校舎には長崎五島町の諫早屋敷を賃借し、オランダ系米国人であるフルベッキを教師にむかえた。 「蕃学稽古所」と呼ばれたこの英語塾が後の「致遠館」である。
 佐賀藩が英学を導入する基礎を築いた小出千之助は、1867年のパリ万博にも佐賀藩派遣団の一員として参加。 翌年帰国して致遠館の学頭となったが、その年、落馬事故で急死した。