石丸安世(1839−1902)

長崎―東京に電信線を敷設
 石丸安世は佐賀藩随一の英語の達人といわれ、幕末には長崎の外国人居留地で、特別任務である情報収集の活動をし、 1863(文久3)年の薩英戦争の時には、英字新聞から情勢を読み取り、戦闘の様子や損害について正確な報告を送り続けた。
 1865(慶応元)年、石丸は佐賀藩の密命で長崎の貿易商グラバーの助けを借り、馬渡八郎と共に大英帝国へ密航留学した。 当時のイギリスは産業革命を経て、近代化が進み、「世界の工場」と呼ばれていた。
 2人は、グラスゴーのストラスクライド大学で理工系の知識を身につけた。、帰国後、石丸は1871(明治4)年、明治政府で工務省電信頭となった。
 日本が鎖国を敷いている間に世界では電信網が広がっていた。 世界初の海底ケーブルは1851年、英仏海峡に敷設され、海を越えての通信が可能となり、世界の海底ケーブル網は徐々に発達を続けていた。
 1871年にはデンマークの大北電信会社(グレート・ノーザン・テレグラフ社)が、長崎〜上海、長崎〜ウラジオストク間に海底ケーブルを敷設、 日本とヨーロッパの間で国際通信が可能となり、長崎〜東京間の電信線の敷設が急務となった。
 電信頭となった石丸は破天荒の大事業、長崎〜東京間の電信架設工事を推進した。 電気は当時の日本の大多数には未知の技術で、電柱を倒されるなどの妨害も相次いだが、事業は2年後の明治6年に完成した。
 日本で電信が始まった当初、電線の架設に必要な碍子(がいし)はイギリス直輸入で、高価な割に品質は悪いものであった。 そこで、有田焼をよく知っていた石丸が、有田の磁器で碍子が作れないものかと有田の八代深川栄佐衛門に相談し、有田焼の碍子が作られるようになった。 高取伊好、志田林三郎、中野初子らは石丸の門下生である。
 石丸安世の墓は東京都立青山霊園にあり、ここには日本の近代化に貢献した佐賀出身の人々の墓が多数ある。