久富与平昌起(1872年没 享年40歳)

貿易で藩のために東奔西走
 17世紀はじめに誕生した有田焼は、1650年ごろからオランダの東インド会社によって伊万里港より輸出された。 輸出総数は数百万個といわれ、欧州全土を席巻した。しかし、18世紀中盤に輸出は途絶える。
 肥前の焼き物の貿易が有田の富商久富与次兵衛昌常によって再開されたのは1841(天保12)年。 久富家は鍋島閑叟から屋号の蔵春亭を拝受し、1853(嘉永6)年には長崎に蔵春亭支店を設立した。 店は佐賀藩の事務所としても使用され、大隈重信や江藤新平らも出入りしていたという。
 その与次兵衛昌常の六男が与平昌起。 長崎の店を任され貿易の第一線に立った与平は、英国人トーマス・グラバーと親交を結び、炭坑の共同開発にも着手した。 彼等が開発した炭坑は、後に三菱に引き継がれた高島炭坑である。
 1866(慶応2)年、与平は小城藩主鍋島直虎に建言し、米国ボストンで建造された200tの汽船ドルフィン号を2万3千ドルで購入させた。 これが「大木丸」である。
 与平はこの船を操り、上海へ陶磁器、和紙類、松板、石炭等を輸出し、帰りには新式の武器を輸入するなど、藩のため東奔西走した。
 明治になり、新政府の要人となった江藤新平は、旧知の与平に東京府知事就任をしきりに勧めたが、与平は固辞した。海運と貿易を開始し五大州を廻らんと望んだからだ。
 1870(明治3)年の晩秋、与平を乗せた大木丸は千島沖で台風に遭って難破するという事故が起る。 船は半年余も島から島へ漂流したといわれている。 与平は遭難した船中で病に倒れ「遺体は海中に投ぜよ。死後長鯨に跨って初志を遂げん」と言い残し世を去ったという。 1871年6月、享年40才だった。
 後に大隈重信は「長命であったなら三菱以上の事業を成しとげただろう」と与平のことを回顧している。
 現在、有田町稗古場の報恩寺境内には鯨をかたどった台座の上に与平の碑が建っており、与平の師であった谷口藍田の碑文が刻まれている。