八代深川栄左衛門(1832−1889)

有田焼の発展・輸出に貢献
 深川家は有田の有力な窯焼であった。 江戸時代、有田の焼物は伊万里から積み出され、貿易品は有田の貿易商人が長崎のオランダ商館や中国商人に売り込んでいた。
 佐賀藩の方針で有田の貿易鑑札は1枚のみで、田代屋が貿易を独占していた1868(慶応4)年春、 当時、有田のリーダーの一人であった八代深川栄左衛門は佐賀城下の藩庁にのり込み、貿易の権利拡大を願い出た。 その結果、鑑札は10枚となった。久米邦武はその場に居合わせ、「この人はやるな」と思ったという。
 1871(明治4)年、デンマークの会社により、長崎−上海、長崎−ウラジオストックの海底ケーブル敷設が完了し、 日本とヨーロッパが通信で結ばれた。 電信頭であった石丸安世は長崎−東京間の電信線架設工事を推進したが、工事に必要な碍子は当初イギリスからの輸入品で、高価な割りに品質は悪かった。 そこで有田の焼物技術の高さを知る石丸は、栄左衛門に相談した。栄左衛門は研究を重ね碍子の製造に成功し、難工事は1873年に完成した。
 しかし、有田の陶工たちは、優れた美術工芸品を製作する事を誇りとする名のある窯焼が美術的価値の無い碍子を作ることを冷笑したという。
 有田の焼物はパリ、ウィーンの万博には藩や政府の援助で出品され好評を博したが、1876(明治9)年のフィラデルフィア博覧会は自費出品となったため、 資金力のない有田の人々は出品を躊躇した。
 岩倉具視とともに米欧を回覧してきた久米邦武が、栄左衛門に欧米には同志で資金を出し合い、 一個人では成し得ない大きな事業を行うためカンパニーがあると、会社設立を促した。 そこで有力な窯焼や商人で合本組織香蘭社をつくり栄左衛門が社長となり、博覧会に参加し、金賞を受賞した。 以降、有田焼のアメリカへの輸出が始まった。
 その後、合本組織香蘭社は分裂し、深川栄佐衛門は単独で今日の香蘭社の基である香蘭合名会社をつくった。
陶山神社にある顕彰碑「深川君之碑」は、題額は大隈重信が書き、久米邦武の文章で、日本の近代化を支えた有田と栄佐衛門をたたえている。