川崎道民(1831−1881)

米欧を訪問、写真技術習得
   暗箱の原理と感光材料を結びつけた写真術は、 フランスのニエプスによって発明され、日本へは嘉永元年(1848)に長崎出島を経て伝わり、 洋学の盛んな藩で研究が進められていった。
 川崎道民が安政6(1859)年に鍋島直正を撮影したといわれる写真は、現存する日本人撮影の写真としては、 安政4年に撮影された島津斉彬の写真に次ぐ古さである。
 万延元(1860)年、日米修好通商条約批准書交換のため新見豊前守正興を正使とする幕府の公式使節団77名が、 米国政府が提供したポーハタン号に乗船し、ワシントンを目指して出発した。 このとき、川崎道民は使節団の御雇医師として、佐賀藩士本島喜八郎、島内栄之助、小出千之助、綾部新五郎とともにポーハタン号に乗り込んだ。
 使節団にはサンフランシスコまで警護、および幕府海軍の航海術の実地訓練の目的で勝海舟らが乗船した咸臨丸が随行した。 咸臨丸には佐賀藩士秀島藤之助、福谷啓吉が乗船していた。
 使節団がブキャナン大統領と日米修好通商条約の批准書を交換するためにホワイトハウスを訪れた際、幕府の高官に従者たちが土下座をしている姿をみて、 アメリカ人は大いに驚いた。
 使節団一行は各地で大歓迎を受け、街をパレード中に市民が馬車の中をのぞき込んだり、服に触ったりするので、その行儀の悪さにびっくりした。 川崎道民は、行く先々で写真を撮られ、新聞記事となって報道されることに驚いた。
 1862年に幕府は開市開港延期交渉のため遣欧使節団37名をヨーロッパに派遣した。この文久遣欧使節団には佐賀藩からは川崎道民、 石黒寛次、岡鹿之助が参加した。 鍋島直正はこれらの使節団に砲術や航海術、蘭学を学んでいた佐賀藩士の中から精鋭たちを参加させていたので、西洋事情を視察してきた彼らは、 帰国後、大きな働きをした。
 川崎道民は、新聞事業の重要性を悟り、明治5年、同志と佐賀に新聞社を創設し、活字印刷の新聞を発行した。 この新聞社は長くは続かなかったが、川崎道民は日本で極めて早い時期に写真術を習得した人物として知られている。