11代斎藤用之助と鳥島移住

11代斎藤用之助が島尻郡長在任中の1904年(明治37)、硫黄鳥島が噴火し、鳥島島民は久米島に字鳥島という集落を形成し移住する。 この一連の大事業が鳥島移住であり、これに功績のあったのが斎藤用之助である。
1)鳥島について
ここでいう鳥島とは沖縄県の最北端の島で硫黄鳥島のことをいう。現在は無人島。 徳之島の西にあり、鹿児島県に属する奄美諸島の沖永良島や与論島のはるか北に位置する。
鳥島は沖縄唯一の火山島で、この島から採掘される硫黄は琉球王府時代、中国への重要な進貢品の一つとして、 琉球王府が解体する19世紀半ばまで、採掘され進貢されていた。
琉球から進貢された硫黄は精製され強い殺菌力を持つ医薬品としても利用されていたが、主には火薬の原料として珍重されていた。 1609年、薩摩藩に攻められ琉球は薩摩の管理下となるが、硫黄鳥島はその位置にもかかわらず琉球王国の領として扱われた。 これは、中国との貿易を模索する幕府や薩摩藩の思惑も絡んで、進貢政策を琉球王によって進めるためであった。 硫黄は、建国当時の明にとってモンゴルの勢力を駆逐するための火薬原料として必要な品物であった。
2)全島全部の移民
調査技官等の鳥島調査の結果、適当な土地に移住し、永遠に万全の策をとった方が良いことで各役人の意見は一致した。
島民は移住賛成の意見として
1、 鳥島は住民を養うだけの生産物がない。
2、 子弟に教育を受けさせ、進歩発展を願う。
3、 孤島ゆえに経済的な発展が見込めない。
4、 交通便利なところに移り、社会的感化を受け、進歩したい。
5、 薪水が豊富で衛生的なところで住民の繁栄と発展をはかりたい。
また、一時反対をした人々の意見は、
1、 祖先伝来の地を捨てるには忍びない。
2、 移住したくない人だけ残れば、やっていけるのではないか。
3、 温泉のない土地に移住するのは死地に行く思い
というのであった。
当時、全島全部の移民は類例がなかった。 先祖が努力し、手に入れた家屋や耕地、慣れ親しんだ風土一切を捨て、未知の土地へ移住することは容易なことではなかったが、 全島民が子孫永遠の発展のために移住を決行した。
島民たちはこの事を忘れず後世の人々に残すため記念碑を、一つは鳥島に「今後、もうここには何時までも永久に住居してはならない」との意味を込め、 もう一つは新天地、久米島字鳥島に「移住してきたこの地が子孫を繁昌させるべき永遠の居住地である」との意味が込め、 移住が完了した明治37年2月建立した。
移住に要する費用は、
1、 移住戸数100戸の家具と人口690余人の運賃。
2、 移住地に新築する各移住民家屋の建設費。
3、 移住地における移住者の生活の基礎となる耕地の購入費。
4、 移住当日より移住後その耕地に播殖せしめたる収穫物の生産するまでの移住民の食料代。
5、 農業生活を為すに必要なる農産種子農具及び家畜代。
6、 右の外、移住後に生ずる予知す可らざる雑費。
これらにかかる費用の、予算額は当初約4万円。硫黄代金より支出した移住費は1,500円。 1904年(明治37)2月には日露戦争も勃発していることから、国家財政も厳しくなったため、国庫からは17,351円が補助された。
3)字鳥島
硫黄鳥島より移住してきた人々のために作られた字鳥島の広さは20,461坪で、内道路面積は6,059坪。 屋敷は最も広い所で171坪、狭い所で81坪であり、碁盤の目のように区画され、それまでの久米島にはない近代的な集落ができた。 集落内の道路は殆どが3間(約5.4メートル)で、現在でも決して狭くない道路幅である。家屋は移住当時は掘立小屋であったが、 徐々に建て替えられているが、区画はほぼ当時のまま現存している。

用之助港

沖縄本島南部糸満市大渡浜に用之助港がある。 満潮時には水面下に隠れる場所で工事は難行し、およそ2年7ヶ月を要し、明治40年10月工事は終わった。
長さ120間(216メートル)、幅3間(5.4メートル)、深さ7尺(2.1メートル)の港口が完成し、 干潮時でもイノー(リーフ内の穏やかな海)への出入りが出来るようになり、 天候が急変したとき、この港は最寄の非難港となり、近海での遭難は減った。
また、この地で収穫されるサトウキビを陸送していたのが、船で運べるようになり、地域の砂糖産業に大きな利益をもたらした。