初代沖縄県令は何故鍋島直彬か

「一体どんな事情で私の祖父が、成立早々の明治政府に任命されて沖縄県令になったのか? 私のうちでは、『岩倉さんの推薦があったからだ』と言い伝えられている。」故鍋島直紹(佐賀県知事・参議院議員歴任)談。
当時の政府首脳陣には副島種臣、大隈重信などもおり、同郷の鍋島直彬を沖縄県令に推薦したとも考えられる。
直彬は、「岩倉右大臣、柳原公より話があった。琉球藩を廃し、沖縄県を置くことが決まり、今般の廃藩置県は国家の大事である。 沖縄は門地を最も貴ぶのであるから、民を服従させるには県令を華族から選ぶのが得策であり、某藩大華族に内命したが行きたがらない。 時が迫っており、私に話が来た。琉球は日清両属の態があり、失策は許されない。」と鍋島直彬が原忠順に相談し、忠順に補佐を望んだ。「原応公」
何故鍋島直彬が沖縄県令となったかは定かではないが、それまでの沖縄の歴史と、鍋島直彬の経歴とが大きく関係するようである。

鍋島直彬の経歴

1843年(天保14) 鹿島10代藩主、直永の長男として生。1848年(嘉永元)襲封し直彬と称す
1871年(明治4)7月鹿島県知事、11月伊万里県が置かれ、鹿島県知事を辞任
1872年(明治5) 8月政府の命でアメリカに視察旅行
1873年(明治6) 4月9ヶ月のアメリカ旅行後帰朝。報告書「米政撮要」作る
1874年(明治7) 2月佐賀の乱ため帰郷。明治8年にかけ東京都と郷里を往復し善後策にあたる
1876年(明治9) 3月、明治天皇侍従。岩倉右大臣の推薦 10月法務局出仕を兼任
1878年(明治11) 侍補局廃止。宮内省御用掛
1879年(明治12) 3月内務省御用掛兼務、更に司法省御用掛兼務となり、4月5日に沖縄県令に任命

鍋島直彬の赴任

「鍋島直彬公伝」によれば、5月7日、属僚34人を随えて横浜より名古屋丸に乗って出帆したとある。 これより2年1ヵ月余在職し、1881年(明治14)5月18日退任する。直彬退任後も沖縄に残った佐賀県人は多数いる。
また、「沖縄大百科事典」(沖縄タイムス社発行)では以下のように記載されている。

鍋島直彬 なべしま・なおよし 1843・12・11〜1915・6・14(天保14〜大正4) 初代沖縄県令。1879年(明治12)4月4日から81年5月18日までの2年1ヵ月余在任。 肥前鹿島藩の出身で、1848年(嘉永1)藩主となる。69年(明治2)鹿島藩知事、72年アメリカへ留学、76年帰国。 琉球処分=廃藩置県直後の世情不安な時代の初代沖縄県令として、書記官に家老原忠順をしたがえて、79年5月18日、那覇着。 県令を辞任する年の4月、大隈重信にあてた書簡の中で、<小生ノ弱体ヲ以ッテ瘴炎毒熱ノ絶境ニ奉命シ、及バズナガラ黽勉候ハ、 全ク人ノ行クヲ欲セズ、華族中ニモ御請申上候人ナキ処ヨリ、一身ヲ国家ノ為メニ棄ルヲ期シ、七十歳ノ老母を顧ミス断然赴任>とあって、 よほどの決意で赴任したようだ。在任中にコレラにかかり、また、頑固党士族の蔑視と非協力のなかで、置県創始の困難な局面に苦慮している。 施政面では教育と勧業両面にとくに重点をおいた。