マツヨの生活

マツヨの家庭生活
社会的に成功した女性の評価を決めるのは、社会的功績にまして、その家庭生活の風評にあるのではないかという思いが湧きました。社会的成功者が男性であったら、家庭生活の有様は、そこまで人の噂の種にはならないのではないか、社会的評価を左右する材料にならないのではないか、そこにもや はりジェンダーの問題が横たわっているように思います。
マツヨが生まれ育った家庭生活
 母の実家に預けられて勉学に励んだり、転校を繰り返し、読書が友達であった幼少時代ですが、父母の長女マツヨへの特別な情愛、マツヨの父母への深い敬愛の情などが伝わってきます。明治後期とはいえ、女性であるマツヨの教育に熱心であった両親と、その期待にしっかり応えてきたマツヨとの基本的な信頼関係が築かれた生活だったと思われます。しかし、才能があり、努力を惜しまぬマツヨは、自分の内面の弱い部分を自覚し、うまく表現して処理する術を学び損ねたようにも思えるのです。
興英との家庭生活
興英27歳、マツヨ22歳。民族学、婦人解放思想をはじめ深い精神的絆で結ばれた二人は、夫婦と言うよりも「師弟のようだった」とマツヨは回想しています。お互いからだが丈夫ではなかったため、当初から子どもを持たないこととし、多くの本が自分たちの子どもがわりとなったのでした。ただし、晩年のマツヨは子ども(家族)を持たない孤独さをしみじみ感じていたようです。3年9ヶ月という短い期間ではありましたが、マツヨにとっては一番の至福の時でした。看病にも専門的知識を生かし興英に尽くします。興英の死後、遺骨を持って沖縄にわたったマツヨは、毎朝亀甲墓という大きな墓にお参りし、果てには焼かれるのは忍びがたいと位牌を持ってサトウキビ畑を逃げ回ったエピソードも残っています。また、刺繍をして手縫いで仕上げた裁判官の法服が形見として残った後、マツヨは生涯手放さずにいたようです。晩年の独居生活の寝室にはこの法衣がかけてあったという元秘書の証言もありました。
再婚後の家庭生活
 佐賀の実業家との家庭生活こそが、マツヨの佐賀における風評に大きく影響を及ぼしたものであり、この結婚生活でのマツヨの「女として妻としての苦悩」を知ることが、マツヨに対する否定的風評を変えていくひとつの鍵になるのではないかと考えています。自伝「あすなろう」には、出生家族や興英との家庭生活に関する記述は出てきていますが、再婚後の結婚生活は記されていません。年表には「鉄工所経営」とだけ表記されています。例外的に、昭和48年の朝日新聞のさがの女シリーズというインタビュー記事の中で、再婚後の結婚生活の苦悩がわずかに語られています。
 そこで注目したのが、晩年マツヨが立て続けに発刊した歌集5冊です。第1集の「歌ごころ」は、マツヨが再婚していた44、5歳の頃(昭和18年頃)の悩み多い日常生活を短歌として綴っていたもので、偶然30年後に書庫でみつけ発行したものです。「序」を書いた当時佐賀大学教官で、短歌結社「ひのくに」編者、中原勇夫氏の文章に興味深いくだりがあります。
    その後、歌帖を拝借し、一気に卒読したのであるが、旧来のわたくしの「永原女史観」
   をかなり大幅に修正せざるを得なかった。「女の歌」「妻の歌」の中の嘆きが、女徳婦怨を
   適度にかもし出して、それが淑かな平淡の境を作りあげているのである。これでこそ真の
   幅広い教育者と知った。今は亡きわが両親から聞き知っていた永原女史とはかなりに違っ
   たお人柄の和と清とを感得せざるを得なかったのである。

 ここから、中原氏の両親が話していたマツヨの評判は、「和と清からほど遠い否定的な内容」であったことが推測できます。
マツヨ自身は、「父母にも話せない弟妹にも秘していた女としての悩み、実業家への妻の道への疑い、しかも迷いであった。まずしい歌が自分のつれづれを慰めた」と記しています。マツヨは、自分の悲しさ、つらさ、弱さを容易に漏らさないという決意を秘めていたのではないでしょうか。私学経営や社会活動という公的なで悩みを分かち合う人は一部にはいたかもしれませんが、女、妻という私的な面での悩みはただ一心に堪えていたように思えてなりません。
昭和20年9月25日付け、乱るる心と題した11首のなかに、マツヨの苦しい心情を察する数首があります。

   夢にだに父に見せじと苦しみに我は堪えきて五年の春秋
   心には詫びつつわれをおさえかね声音鋭くはしためを呼ぶ
   心にもなきはしたなきことをいひ叱りてわれの悩まぎらす
   涙しつつ笑顔つくりて詫びいれるをとめの心いつもいとほし
   あさ餉さへ忘れて畑の手入れすも張りのなきわが留守居のひと日

 夫の帰りを待ちわびる留守宅で、マツヨは家政婦である若い女性を声を荒げて呼びつけ、感情的に叱りつける。内心は、自分の苦しみを紛らすためだと分かっているし、叱った相手にすまないとも思っている。その時は泣きながらも、すぐに気を取り直して謝ってくる家政婦の素直さが可愛くもあり、羨ましくもある。 この場面から、マツヨが寂しさや悲しさを押し殺そうとしてもおさまらないとき、すまないと思いつつも周囲の人に厳しくあたる行動パターンが浮かび上がってきます。どうしても辛いとき素直に泣いて弱音を吐けば、かえって周囲の人は慰め、励まし、理解してくれただろうに、とも思えます。しかし、針葉の意志の人、マツヨには簡単にできなかったことなのです。
歌ごころの中で、夫への思いを記した短歌を数首挙げてみます。

   汗ばみてふえし白髪を刈りてをりいくとし月の夫のいたつき(散髪)
   夫のたより絶えし日いつか寂しさのつもりてけふもいらたつわれは(待音信)
   ただ十日見ざりし夫のやせし面は弱れる声にわが胸いたむ(看護)
   前つ世の神のさだめに夫と仰ぎ妻と親しむ縁にあらむか(看護)
    (斯くて全快した夫は我が家へは帰らなかった)
   心反れてこの家に寄れる夫とわれととほくへたつか冷きこの門(別居)
   黙しつつ祈る心に夫恋えば泪にくもるコスモスの花(別居)

  この作品群を読む限り、マツヨは当時、夫を深く思っていたとしかいえません。佐喜眞マツヨとして女教師をしていた時代、再婚を望まれ請われたマツヨは、当初は戸迷いもあったでしょう。しかし、前世の神様が夫婦になれとお決めになったご縁ではないかとさえ思った時期があり、夫の病気に心いため、一週間の夫の音信不通に胸を塞がれ、鎌倉まで行き看護した後、別の女性の家へ帰った夫を恋うマツヨの姿が浮かび上がってきます。夫がなぜマツヨから心離れていったのでしょうか。マツヨは夫を待ち続けるのに疲れ切ったのでしょうか。詳細ないきさつは分からないまでも、マツヨは、夫に裏切られた悲しみや悔しさを声高に叫ばず、心の奥で断ち切って、再び社会的な活動へ注ぐエネルギーへと転化させたのではないでしょうか。その時のマツヨを精神的に支えていたのは、やはり若き日に熱く語り合った興英だったのではと思うのです。
 「離婚の慰謝料を元手に大学を建てた人」という表現は、「お金目当てで愛のない結婚をした人」あるいは「2度も3度も離婚して恥ずべきことだ」という、嫉妬、偏見、固定観念の現れのようにも思えます。マツヨは、家庭生活のつらさに泣いて封建的な世間の理解と同情を得ることはしなかったのです。理解して欲しい想いと理解されない苦しさをマツヨは胸底に抱き続けてきたのです。