永原マツヨの生い立ち

幼年期
 1898月 8月3日に佐賀県神埼郡千代田町で、父 永原元吉、母 マスの長女として生まれています。
 父は警察官で、県内各地の山間地を転任していたため、小学校8年間の間に6回転校しています。6人いる子供たちを皆大学へ入れたいとの教育熱心な両親はマツヨを冬の間は、母の実家(神埼町石丸産婦人科医院)に預けたために、学校のクラスでは友人はできにくかったようです。母の実家は自由な教育方針でマツヨはいとこたちと親しんでおり、よく一人で本を読んでいました。祖父からは浄瑠璃を習い、学校の勉強をやかましくいわれることはありませんでした。
 母は、裁縫の小道具を売る商いをしたり、洗い張りを請け負い、父の収入を補い物を大事にしながら子どもたちを育てています。父は読書家であり、両親は子どもたちが勉強することを喜びとし、5人いる子供全てに高等教育を受けさせています。
 小学5年の時に両親が東脊振村の松隈に定住するようになり、初めて弟妹と同居することになりますが、マツヨは親に甘えたり、兄弟たちと戯れたりすることはほとんどなかったようです。学校では歴史が一番好きな学科で、高等科の女教師にあこがれ、教師を志します。
 「大した金持ちでもないのに無理に上級学校にやらなくても」という周囲の目を黙殺し、進取の気を育ててくれた父母への恩は強いというマツヨの言葉が、  昭和48年11月1日の朝日新聞「さがの女」の欄にあります。
青年期
1914年佐賀師範学校女子部に入学します。読書に熱中する生活でした。欧米では婦人運動が始まり、日本でも青鞜が1911年に創刊されています。しかしながら、学校では本の検閲が厳しく、自由恋愛や恋愛至上主義を唱える図書は寄宿舎で取り上げられるという事件が起こりました。窮屈な校風の中で、次第に教師への夢がしぼんでいきます。この頃マツヨは宗教と哲学の本を愛読したようです。
 1917年(大正6年)18才で師範学校を卒業し、西郷小学校で訓導(現在の教師)となります。毎日バイオリンを持って通い、自ら進んで研究発表を引き受けるマツヨは、同僚からは快く思われないことも多かったようです。もっと広い自由な世界に理想を求め、封建的な色合いの強い佐賀を飛び出してしまいます。
 京都府の宮津小学校、大阪市の築港小学校、福岡市の千代町小学校を転々とするようですが、この間は資料がなく不明な点が多くあります。しかし、どの学校でも、在任期間は短く、当時これは大変希なことであるようです。
 1921年(大正10年)大阪婦人新報の記者となります。関西地区の各界で活躍する有名な婦人活動家や著名な女性を取材し、生活や考え方を記事にするのが彼女の仕事であったようですが、このとき、「多くの婦人の生活を知り、封建制の打破を志す」と本人の記述にあります。
 このころ、「元始女性は太陽であった」という、雑誌『青鞜』にある平塚らいてうの言葉に心を動かされ、このことを証明しようと、様々な文献に当たり、民俗学の研究に熱中する青年裁判官がいました。彼の名前は佐喜真興英。
 このころ、マツヨは佐喜眞興英と知り合い、結婚をしているようですが、はっきりした時期はわかりません。

 

佐喜眞興英との出会いと結婚

 宜野湾史誌編纂のために、生前のマツヨにあって話を聞かれた、仲村元惟氏(現普天間第2小学校校長)の話によると「佐喜眞興英が東大卒業後、予備判事として福岡に在勤中に、たまたま同一ホテルで部屋が向かいであったため、民俗学や英語ドイツ語をマツヨが興英から学ぶ機会を得た」ということです。
 永原学園50周年記念誌では1922年(大正11年)上京したマツヨが、東京小石川のバイブルスクールで興英とともに学び、その年の暮れに結婚したとあります。しかし、マツヨの手記には、興英との結婚生活は3年9ヶ月とあることより、興英とは1921年(大正10年)9月に結婚したことになります。
 マツヨは、民族・民俗学に興味を持っており、興英はすでに1920年(大正9年)に『民族と歴史』に様々な論文を発表していました。  興英は1921年5月から翌年3月まで福岡地方裁判所に勤務しており、マツヨが大阪婦人新報の記者として、何かの取材で福岡に来て知り合ったか、  興英に会うのが目的で訪ねて来たのではないかと私たちは推測しています。
佐喜眞興英
 佐喜眞興英は1893年(明治26年)沖縄県宜野湾市で生まれ、幼少の頃、宜野湾市きっての富農の佐喜眞本家の養子となります。16歳の時、幼い頃より両親の決めた縁組みにより同年の新城ウタと結婚。
 19歳の時沖縄県立第一中学校を首席で卒業し、第一高等学校に合格。友人の島袋光裕を頼って上京します。島袋は神田三崎町の玉名館に下宿していました。旅館の女主は青鞜社同人、女性解放運動に身を投じて活動した荒木郁子。玉名館での体験は、感じやすい興英に女性解放問題を考える直接的な契機を与えたものと想像されます。
 「元始女性は太陽であった」ことを興英は故郷沖縄の聞得大君(きこえおおぎみ)制度に思い当たります。このことを証明するために様々な文献に当たり、バッハオーフェンの母権論を熟読し、民族・民俗学に熱中します。当時沖縄の女性たちは経済的に恵まれた家庭の子女であっても、ウタのように学問をすることはできませんでした。学問をし、知識を身につければ、女性も自らの才能を開花させることができることは、興英にとっては驚きであったことでしょう。
 22歳で第一高等学校独法科を卒業し、東京帝国法科大学独法科に入学します。在学中に民俗、歴史の数々の研究を発表しています。興英の才能に民俗学者柳田国男は目を留め、興英に期待を寄せています。 20歳の時沖縄に残したウタとの間に長女貞子が誕生しています。
 大学を卒業する頃に、興英は「ここから出て行けと言うことではないんだよ。あなたの好きなようにしなさい」とウタに財産を与えて籍を抜いています。ウタは悲しみ興英を勝手な人だと恨みますが、貞子とともに佐喜真家に留まりました。興英に限らず明治の頃、本土に渡った沖縄出身の男性たちの間には、沖縄に残した妻と別れてしまうことはよくあることで、社会問題となっていたようです。
 1921年(大正10年)28歳。東京帝国大学卒業。裁判官となり、以降任地を転々とします。大学卒業の頃に沖縄に残していた妻ウタと離婚。同年9月永原マツヨと結婚すると『佐喜真興英全集』(1982年新泉社発行)の興英の年譜にはあります。
 裕福な家庭に育った興英の目に、マツヨはどのように映ったでしょうか。貧しいながらも、自己実現のために努力を続け、自己を磨き、  行動力あふれるマツヨに引きつけられたのは間違いないと思います。
興英の影響
 民俗学、考古学、ドイツ語、英語・・・・マツヨは興英から指導を受けます。
 興英はマツヨに「男性は誰でも漢字で名前を付けられているのに、女性には仮名でつけるというのは女性に対する偏見の現れではないか」と言い、松代に改めることを勧めたといいます。興英はマツヨに勉学を勧め、婦人運動にも積極的に参加させたようです。マツヨは婦人運動を志し、市川房枝らと婦人参政権獲得連盟にも参加しています。
 興英は女性の解放のためには、政治や法律、教育の力を重視しなければならないことを説きます。興英は、聡明な松代を女性初の弁護士にするつもりのようでした。興英は裁判官として、福岡、東京、大阪、津山に赴任します。
 興英も松代も病弱であったために、子どもをあきらめ、二人の蔵書を子どものように大事にしてき暮らします。興英の病状が悪化した1925年(大正14年5月)『シマの話』が郷土研究社より出版されました。病床の興英は大変喜んだのですが、もはや本を手に取る力もなく、マツヨが1枚1枚ページをめくり、感激の涙を流したということを前出の仲村先生はマツヨから聞かれています。。
興英は、1925年(大正14年)津山区裁判所在任中、肺結核が悪化し、6月13日亡くなります。 この時「相続は貞子に」と実母に遺言を残しています。
興英の遺稿集「女人政治考」の出版
「津山区裁判所の判事の死として、遺言状の検認を経て、私の将来は、夫の期待に添うことも大事であるが、遺著の出版を我が子のように思っていたので、まず第一の生き甲斐とし完成したいと願った。友人T氏によって夫の養母、実母にも十分了解していただいた。盛大な村葬の後40日間の滞在で私は上京した。一周忌までにはと、遺稿『女人政治考』の出版を念願通り完成したのである。」とマツヨの随想「あすなろう」に書かれています。
 遺骨を持って沖縄へ渡ったマツヨは、お歯黒になり、毎日花と水を手向けに墓参りをしたといいます。沖縄の風習で白木の位牌が焼かれる49日には、亡くなったものが不憫だと、位牌を持ってサトウキビ畑を逃げまどったそうです。
 49日が過ぎ、津山に戻ってみれば、ほとんどの物は無くなっていました。当時、肺結核は大変おそれられる病気のため、消毒され焼却処分されてしまったということです。興英が命を削ってなした研究もほとんど灰になっていたのでした。
 興英は裁判官でしたが、民俗学者としての将来も所望されていました。柳田国男は「日本民俗学にとって大きな損失」として、その死を深く悲しみました。
 興英の1周忌である、1926年6月松代は柳田国男の協力を得て作り上げた遺稿集『女人政治考』を東京の岡書院より出版します。その序文に柳田国男は「独り佐喜眞君夫妻にあっては夙に毅然として決するところがあったらしい。夫人松代子が隠れたる学者の真価を疑わず、その愛と感化を受けて、終始従順なる助手を以て自ら任じ、筆者整頓の一切の煩務を引受けた上で今又此書を公表したる後、更に之に基自らも同じ学問に進まんとして居るのは、誠にいさぎよい日本女性の一例であると思ふ。新たに提出せられたる本書に興味ある題目が是と一脈の下に通るものあるを感ぜざるを得ない」と書いています。
 1982に刊行された『佐喜真興英全集』解説には、我部政男氏(現山梨学院大学教授)は「永原マツヨは、佐喜眞との短い結婚で得た精神的遺産を継承し女子教育に専念する。柳田も述べているように、永原マツヨは佐喜眞の示した道を進む。今日佐賀市で二つの大学(西九州大学、佐賀短期大学)を創立し、学長の激務を果たしつつ家庭裁判所の調停委員も兼ねている。女子教育の普及は佐喜眞の精神の継承であり、大学の経営はその実践であると。永原マツヨは、佐喜眞興英が自分の中に生き続けていることを、今もって誇りにしている」と記しています。