佐喜眞興英の意志を引き継ぐマツヨ

『女人政治考』について
 副題に『人類元始規範の研究』と記された『女人政治考』とは、興英が文字通り心血を注いで手がけた研究でした。大学時代に徹底的に読破したバッハオーフェンの『母権論』を理論的な基礎にすえ、諸外国の研究者や探検家の報告を整理検討し、これに日本と沖縄の事例を加え、古代における母権社会の争論を打ち立てようという試みでした。
 「そこに引用された文献の量のすごさに驚かされる。英、独、仏はいうに及ばず、中国語の文献、それに『古事記』、『日本書紀』をはじめとする日本語の古文献である。ざっと数えただけでも150の多きにのぼる。うち20数編が日本語の文献であり、その他はすべて外国語である。・・・・大正15年というその刊行年から考えて、驚異的なことであるといわざるを得ない」と『南島研究の歳月』(野白武徳著、東海選書)にも紹介されています。興英や柳田国男の指導を受け、これを清書したマツヨも又、これらの知識を身につけていたのだと思われます。
 又、邪馬台国論争にも大きな貢献をなしていることも研究者の間では評価されているようです。
 興英はこの研究の下書きに何度も手を入れ、か細い生命を縮める作業に専念をし、その完成を見ないまま生涯を終えますが、彼の死後、松代は柳田国男の指導を受け、夫の一周忌に未完の研究成果を遺著として出版し、世に送り出すのです。
 インターネットを利用し全国の図書館を検索してところ、1926年発行の『女人政治考』は奈良女子大学ほかで所蔵されていることがわかりました。
向学心に燃えるマツヨ
 興英亡き後、興英の希望に添うように、マツヨは上級学校への進学を志しますが、官学では「25歳までの未婚の子女」という制限があり入学できませんでした。しかし、興英の学友坂田広祐が理事長を務める関東学院英語学校(現関東学院大学)の夜間部で学ぶことを許可されました。慶応大学医学部生理学教室にも聴講生か研究生として通います。それぞれ、男性の中に一人混じって学ぶマツヨの写真が残されています。市立横浜調理専修学校では卒業証書をもらっています。文部省検定の中等教員免許状(家事)も取得するなど大変な努力をしています。また、昼間は横浜市立浦島小学校に訓導として勤務をし生活を安定させています。
 1931年(昭和6年)母のすすめで、帰郷し佐賀県立神埼高等女学校に勤務し、数々の実績を残します。この間も長期の休みには、学問の刺激を求めて上京して勉強していたことが本人の記述の中にありました。常に現状に満足せず、向学心に燃えた人であったようです。
 神埼高等女学校の教え子たちは、羽織袴姿の女教師の中にあって洋服に身を包み、ハイヒールを履きひときわ目立っていたマツヨのことは勤勉で厳しい先生であったと記憶しています。マツヨのコツコツという靴音が近づくと、男の先生も身を正すほどだったということでした。
 この間マツヨは佐喜眞姓で通していました。当時、全国的に沖縄に対する差別はひどく、佐賀で佐喜眞姓を名乗ることは、  大変なことであったと推測できると沖縄の方たちは言います。沖縄から本土へ渡った人の中には、  差別のために沖縄出身とわからない姓に改名した人もいるほどだったということです。
 

佐賀で活躍するマツヨ

マツヨの再婚 40歳の頃、当時電機会社常務と結婚します。しばらく佐賀から神埼高等女学校へ通った後退職します。マツヨの結婚については興英以外とのことは本人の記述にも残っておらず不明な点が多くあります。
 結婚後夫は会社を興し、軍需景気の中で、ベンツに乗って視察に回るほど事業はうまくいったようです。マツヨも経営に参画し、従業員への給食を始めます。昭和15年には多布施に洋館を建てますが、夫には外に女性が2人3人とあり、家に帰ってこない日が多くなります。たまに帰ってくる夫は二重三重の生活の重圧のためかマツヨに暴力をふるうこともしばしばであり、外の女性に子どもができ、正式に縁を切ります。
 このころの苦しい胸の内は歌の中では受難、別居の中で表れていますが、本人が残した随筆や年譜の中には、見つけだせませんでした。
 唯一、朝日新聞48年11月1日「さがの女」のなかに再婚のことが出てきます。晩年のマツヨから結婚式らしい写真を見せてもらったことがある方の話では、新郎側はきれいにはさみで切り落としてあったといいます。一途なマツヨにとって夫の裏切りは大変つらいことであったでしょう。
 離婚の慰謝料として、洋館建ての自宅とまわりの土地をもらいます。
婦人運動、政治との関わり
 戦争の拡大で女性の負担は過酷なものとなりました。戦時中、マツヨは婦人が機会を与えられるならば、その能力を発揮すると解き、農、工、商上婦人の力の発揮できるチャンスであると言ったのですが、佐賀県全婦人団体間には受け入れられなかったため、1945年2月10日、女性の生活向上を願って、佐賀県婦人連盟を結成し、事務所を佐賀市多布施町の自宅におきました。
 翌年に作られた連盟の綱領には1,婦人の真の自由と解放とによる民主主義体制の確立 2,国民生活の安定向上を図る実際的活動の母体であることを掲げ、@新日本婦道の確立 A平和運動 B政治運動 C母権運動 D女性保護 が運動方針にあげられています。連盟の結成の2年くらい前より、準備を始めていたと聞きました。機関誌「婦人新生栄養の友」は2年間くらい発行され紙友は4千人と記録があります。『あすなろう』に納められている随筆の中には、おそらく機関誌の記事ではないかというものもありますが、現物は見つかりませんでした。
 1946年4月婦人に参政権が与えられた1回目の選挙に、佐賀で社会党より衆議院議員に立候補しています。当時は勝谷マツヨ。佐賀では5議席を巡って37人が乱立しました。当時社会党は結成されてまもなく、選挙資金も自分で調達しなければ成らず、組織とてきちんとしたものではなかったそうです。この選挙でも4名が社会党からは乱立しています。
 マツヨは善戦をし、23490票を獲得しますが9位で落選します。(2名の名を書く連記制であった)この選挙では全国で、39名の女性代議士が誕生しました。
 1946年9月には佐賀栄養専門学院を創設し、翌年の総選挙にはマツヨは出馬しません。  この選挙で角田籐三郎が佐賀県で初めて社会党の議席を獲得します。角田籐三郎の当選の裏にマツヨの支援があったようです。
学校設立と理念
 1946年9月佐賀栄養専門学院を自宅で創立します。農村での女性の差別的食習慣の撤廃、総合栄養食の摂取そのための学習を強く進める中での創設です。
 もとより資産があるわけでなく、多布施の自宅とその周りの土地で始めています。マツヨの弟妹た姉のために献身的な援助をします。
 開学の当初より、女性の自立のためには、経済的な自立が必要。そのためには単なるお料理学校に甘んずるのでなく、栄養士というライセンスをとらせたいと願い、昭和28年には念願かなって栄養士養成施設として厚生大臣の指定を受け、栄養専門学校となります。
 マツヨは裁判所の調停委員をする中で、女性の経済的な自立こそが自己実現の第一歩であることを強く感じたようです。調停委員時代の仲間が、学校設立には資金繰りを始め多大な協力をしています。
 女性が社会進出をしていくためには、家事、料理で時間がとられることのない様に、短時間ででき、栄養価も高く見栄えもよいものを作ることを目指します。竈での炊飯が一般的であった頃に、電気釜を導入し、ヒーターで湯を沸かし、電気フライパン(現在のホットプレート)を使っていたということです。
 マツヨが暮らした家には、今も名残の古い電化製品が残されていました。
 マツヨは郷土佐賀を事あるごとに紹介をしていきます。「東京を中心とした文化偏重を反省して、佐賀を中心に円形を以て拡げて能力の限りを尽くしたい」と昭和43年に発言しています。
 昭和43年に佐賀家政大学(現西九州大学)を開設。49年には社会福祉学科を増設し、福祉の充実が急がれる時代の先取りをしています。
 また、マツヨが創った学校は当初より男性に門戸を開いていました。永原マツヨが女性のエンパワーメント、男女の共生による社会の実現をめざし、50年も前から佐賀で実践をしてきたことは疑いもない事実です。
佐賀新聞社文化賞受賞
マツヨは教育への貢献が認められ、昭和四五年に佐賀新聞社文化賞を受賞します。数々の業績を残すマツヨは1968年(昭和43年)に勲4等瑞宝章を受賞していますが、晩年のマツヨは「佐賀が私を認めてくれた」と佐賀新聞社文化賞の受賞を一番喜んでいたということを聞きました。