研究のきっかけ

北京女性会議と沖縄の米兵による少女暴行事件
1995年9月、沖縄で少女が米兵に暴行を受ける事件が起こりました。 おりしも中国北京で、第4回世界女性会議が開かれ、世界中の女性達のエンパワーメントについて、新たな行動が展開されようとしていたときでした。
 佐賀でもこの事件に憤りを感じた女性達が中心となって、沖縄の動きに呼応したいという動きが生まれ、 報告会が1995年10月開かれました。報告者は沖縄の女性史研究家浦崎成子さん。 報告の冒頭で、彼女は「沖縄と佐賀を結ぶロマンスに思い当たります」と、佐賀の女性永原マツヨと沖縄出身の裁判官佐喜眞興英のことを話されました。 この時マツヨに強く興味を持ったのがこの調査・研究を始めるきっかけとなりました。
佐賀の風土と女性
 沖縄では佐喜眞興英のパートナーとして、大正時代に青鞜社の影響を受け、女性解放の運動に携わったとして知られる永原マツヨは、 佐賀では大学の創設者として知られていますが、彼女の生涯についてはあまり語られていません。
永原マツヨの人生を掘り起こし、佐賀の女性史の1ページを築き上げた人として再評価するには、 少しでも生前のマツヨを知っている人が存在している「今しかない」という思いで調査を開始しました。

 ところで、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」をご存知ですか。1983年の作品ですが、今なおアジアでは人気のドラマだそうです。 このドラマの中で佐賀は、封建的な土地柄と嫁いびりで一躍有名になってしまいました。 主人公おしんは1901年(明治34年)生まれ。マツヨは1898年生まれですから同世代です。

 おしんが苦しんでいた時代に、佐賀にもマツヨのような女性がいたことを認識し、彼女の功績を知らしめたいと思ったのです。

研究の目的

佐賀の地域性と女性の評価
佐賀では永原学園の創始者として、マツヨの名は知られています。 しかし、市井でマツヨについて聞くと、「何度も結婚した人・・・」「離婚の慰謝料で大学を建てた人」と言われ、 「青鞜」の影響を受け女性解放運動の草分けというイメージは持たれていませんでした。
 マツヨは、生涯で数度結婚し、死別、生別をしています。そのことが佐賀の地域性から彼女の評価を低めたのではないだろうかと、私たちは思いました。 評価すべきこと評価をしなければならないと思い、マツヨの功績を掘り起こすなかで、 女性に対して厳しい地域性を考えていこうということで調査研究を始めたわけです。

日本の女性史の1ページを飾るマツヨの生き方を探る
 マツヨを調べる課程で、マツヨは私たちが想像していた以上に女性解放運動との関わりが深く、民族・民俗学への貢献も大きく、  佐賀の女性史というよりは、日本の女性史の一ページを飾るにふさわしい女性であることがわかってきました。
 そこで、私たちは方針を改めて、佐賀ではほとんど知られていないマツヨについて、調べることに専念をしました。
松の葉のように変わらぬ緑の誠実さ、人を寄せ付けない針葉の厳しさを自分にたとえたマツヨの生涯を、記録に留めることを第一の目標に、 彼女の生涯をおったビデオテープを製作し、それを補完する意味で、マツヨの人生をさまざまな資料から考察した報告書を作成しました。
ビデオテープ、報告書をご覧になりたい方は下記までお知らせ下さい。

くすかぜ 連絡先 info@sueoka-saga.jp

研究の方法

聞き取り調査
 1898年生まれのマツヨを知っている人からできるだけ多くの情報を提供してもらおうと、聞き取り調査から始めました。 しかし、大正の末期から昭和初期には彼女は佐賀におらず、残念ながら若い頃のマツヨを知っている方からの聞き取りはできませんでした。
 永原学園関係者、マツヨの親族、教え子、選挙で関わりのあった方、佐喜眞興英の研究者などを対象者にえらび、聞き取り調査を開始しました。

マツヨの著作物や新聞記事、興英の資料
 彼女が書き残した随筆集「あすなろう」や歌集「歌ごころ」、彼女に関することの書かれた新聞記事や書籍、彼女の思想に大きな影響を与えた夫、 佐喜眞興英に関する記事、資料を調べました。また、興英の研究をしている方々とも連絡を取り合い、沖縄へも行き、 興英の孫に当たる佐喜眞道雄氏(佐喜眞美術館館長)にもお話を伺いました。