マツヨの社会的活動

政治活動とマツヨ
 1946年4月の総選挙で、佐賀選挙区からマツヨは社会党から立候補しました。結果は23490票を獲得し37名の候補者の内9位でした。
 具体的にどのような公約を掲げて選挙を行ったかは探し当てることはできませんでしたが、昭和21年4月、マツヨが書いた文章の中では、「日本の婦人の身分上、財産、社会上における地位が、男性の従属物であるかのごとき情態は、事実の発生によって起こったのではなく、長い間封建的思想によって培われ、人格的自由にあるべき男女の間に、伝統の習慣と法律が横たわっています」と、ジェンダーを問題にしています。
選挙の後マツヨは、女性の政治的進出を阻むものは女性同士の中にある反目に似た狭量と、えらぶ嫉妬心のほのめき、「女だから」という差別的自己卑下、排他的狭量と指摘しています。マツヨは、婦人団体が振るわないのは、生活上の重大な中心点である政治に対して遠慮がちだからであると断言し、「政治問題は生活の問題と同様に非常に大事なことである」として女性の自覚を促しています。
 マツヨはその後、教育委員の選挙に出たほかは、再び立候補することなく、私学経営の道に進みます。しかし、政治活動とのつながりは続き、側面から政治活動を支えていきます。 「男女を問わず真に国家の前途を憂い、公正無私の人であったならば、期せずして理想選挙が行われるのである」というのが彼女の選挙活動に対する信念でした。
学校設立とマツヨ
 彼女の女子教育の目標は、経済的な自立の上に立つ精神的な自立です。そのために社会的に通用する職の資格を取らせることのできる教育機関を目指して、佐賀栄養専門学院を1946年9月に設立します。この学校は厚生省の認可を受け、1953年に栄養士を養成する栄養専門学校となり、1955年には卒業と同時に栄養士の免許がもらえることになりました。
 さらにマツヨは次のステップを目指し、東京と佐賀を何度も往復し、1963年には佐賀短大となします。
 マツヨが作った学校の特徴の一つとして男性に門戸を開いていたことがあげられます。後に設立する佐賀家政大学(現 西九州大学)も男性に開かれた大学でした。マツヨは早くから、男女共生型の社会の実現を目指していました。そのために校名に女子と銘打ってはいませんでした。
 また、女性が社会進出を果たすためには、家事の省力化は大きな問題でした。竈での炊飯が一般的な時代にあって、マツヨの学校では、湯を沸かすにも鍋の中に棒ヒーターを入れ、あっという間に沸かし、電気フライパン(今のホットプレート)、2段式トースターといった電化製品を使った調理をし、その普及に一役買っていました。
 ところで、栄養専門学院は、離婚による慰謝料の自宅とそのまわりの土地で始められました。そのことでマツヨは「お金が目当てで結婚をした」と非難されることがありました。
 結婚当初電気会社常務だった夫は、まもなく鉄工所を興し社長となります。マツヨは夫の事業に参画し、従業員への給食を始めたりしています。軍需景気の中で、夫の事業は順調に伸び、ベンツで視察に回るほどだったと言います。そのことを自分が記した年譜の中では「工場経営」と載せています。
 夫の不貞による離婚で、ともに築いた多大な資産の一部を慰謝料として受領することは、マツヨにとっては当然の権利であったのですが、ここにもジェンダーが横たわっていました。    女性解放運動とマツヨ
 マツヨは、興英の勧めもあり、市川房枝らとともに婦人参政権獲得連盟に参加し活動していました。
 マツヨの女性解放の思想には一つの思いが貫かれています。それは、「女性には能力がある」という事です。「婦人解放は女子の本質的属性に磨きをかけることであって、封建的隷属的従属性を取り去ることのみではないのです。封建制の打破は過渡期の運動です」と言っています。女を家や夫に隷属する妻以外には本質的価値を考えなかった封建制を批判し、女性が自己の人格の尊厳を保ち、才能を発揮し、経済力を養う事を目標としています。
 マツヨは佐賀県婦人連盟を1945年2月に結成しています。
 マツヨが考える女性の能力はおおまかに類型すると、研究心、統率力、経済力、政治性、芸能性でした。マツヨは女性がこれらの能力を最大限に発揮することで郷土を守ることをを望みました。
 この考え方は夫であった佐喜眞興英の影響であると思われます。興英は「元始女性は太陽であった」という『青鞜』の言葉に惹かれ、先史時代女性は優秀であったことを、民俗学的に証明する研究をしていましたが、その完成を見ることなく31歳で他界します。マツヨはその遺稿をまとめ、柳田国男の協力を得て『女人政治考』として1926年に出版していたのです。
 マツヨは、女性の能力の啓発は、家庭にあっては家族の協力を得て、女性の仕事を能率化し、余暇時間を増すこととしています。この思想は学校経営に生かされています。
 興英の研究者である我部政男氏(山梨学院大学教授)に、晩年のマツヨは「女子教育は興英から受け継いだ精神的遺産の継承であり、大学の経営はその実践でした」と語っています。
 そのことを証明するかのように、マツヨが過ごした部屋からは裁判官であった興英の法衣が見つかりました。晩年の秘書の話によれば「これは私が一番好きだった夫の物。この刺繍は私がしたのよ」と、毎晩足をもんでもらいながら話していたそうです。

まとめと今後の課題

 今回の調査の終わりに沖縄へ行って来ました。沖縄で女性史を学ぶ人にとってはマツヨの名前は知られており、何か暖かいものを感じさせるという事でした。今回の研究のきっかけを作って下さった浦崎成子さんの案内で、ゆかりの深い人たちに会ってきました。
 その一人は、普天間第2小学校校長仲村元惟氏。宜野湾市史編纂のために81歳の永原マツヨに会いに来られたそうです。マツヨは沖縄から来てくれたことを大変喜び、しっかりした口調で興英との思い出を話したそうです。興英との思い出に浸りながら、仲村氏をいつまでも引き留めて話をしていたいふうで、帰り際には玄関に飾ってあった赤いバラの花を仲村氏のポケットに差してくれたそうです。仲村氏は今年、宜野湾の市民劇の脚本に「興英とマツヨ」を書くと張り切っておられました。
 もう一人は宜野湾市にある佐喜眞美術館の館長佐喜眞道夫氏です。道夫氏は興英と先妻ウタとの長女貞子の次男です。興英の血を引く孫です。道夫氏は25年前、大学院の学生であったときに、佐賀にマツヨを訪ねています。「佐喜眞」と名乗るとマツヨは遠くを見るような目をして、道夫氏を迎えたそうです。この時「青年は佐喜眞道夫と名乗り居る血は争えず目もと口もと」と数首の歌をマツヨは残しています。
 マツヨは道夫氏に「あなたは沖縄に帰って仕事をしなさい。それがいやなら私の所へいらっしゃい。でも、私の所ではあなたが沖縄でやるような大きな仕事はできませんよ」と語りかけ、道夫氏は「人の人生に注文を付けるおばあちゃんだ」と思ったそうです。
 現在道夫氏は、ねばり強い交渉で米軍から返還してもらった、普天間基地の周辺の土地に私財を投じて美術館を建て、丸木位里、俊夫妻の「沖縄戦の図」をはじめ、平和の祈りを込めた作品を並べておられます。 今回私たちは、マツヨの部屋で見つかった法衣をお借りし、興英の墓前に備えてきました。時空を越えた、興英とマツヨの意志の結びつきに感激をしたのでした。
 また、昨年開館した沖縄女性センター「てぃるる」では、私たちが探し求めていた70年前にマツヨの手で発行された興英の遺稿集『女人政治考』と出会うことができました。古書店で見つけてこられたという「てぃるる」のスタッフの方の努力に頭が下がります。
 今、調査の区切りとなり、何とかして日本のフェミニズムの一つの流れとしてマツヨを位置づけることはできないかと思っています。平塚らいてうから佐喜眞興英に流れた思想をマツヨが継承し、実践してきたとして、マツヨを日本の女性史の1ページを飾るにふさわしい人物ではないかと思っているところです。