こぼれ話I 鐘ヶ江録子の調査研究



  葉隠研究76号に、佐賀出身の鐘ヶ江晴朝という明治時代初期に活躍した医者について調べたことを「鐘ヶ江晴朝の調査研究」としてまとめたので、今回はその妻録子についてまとめてみる。
   鐘ヶ江録子とサン・モール修道会
  鐘ヶ江録子について長年調べておられる西村哲郎氏へ、葉隠研究76号をお送りしたところ、西村氏は、それを雙葉学園へ届けてくださった。そして昭和56年に発行された島田恒子氏と渋川久子氏の共著『信仰と教育と サン・モール修道会 東京百年の歩み』という雙葉学園について詳しく書かれている本を送ってくださった。   この本の中に鐘ヶ江録子のことが書いてあった。   あとがきの中で、渋川久子氏は初期の資料探しに大変苦労されたことを書かれていた。『女学雑誌』をみていて、鐘ヶ江ろく子という女性が仏語女学校を設立し、それがサン・モール修道会と関係がありそうなことまではわかったが、その先はどうしてもわからなかったそうだ。そのまま数年が過ぎた頃、パリの母院に手稿のまま保管されていたマダム・セン・フランソワ・ド・サールの「メール・セン・マチルドの生涯」のコピーが届き、その中に鐘ヶ江についての言及があり、思いもかけぬ発見に喜び、島田氏がその部分を急遽翻訳されたことがかいてある。   本文の中には、マダム・セン・フランソワ・ド・サールが、特に印象の深かった初期の築地の寄宿学校の二人の生徒について書いているとある。二人の生徒とは後藤木末と鐘ヶ江録であり、以下のように書かれている。   東京の寄宿学校の初期の生徒である後藤木末と鐘ヶ江夫人が信者になりたいという希望を表し、その許可を家族から受けました。というのは、今まで、日本では女性にはいつも保護者がついており、私どもの学校の月謝を払う生徒に対しては、保護者である父兄から正式な認可証を書いて頂かなければ信仰の真理を教えない方針をとっていたからです。   後藤伯爵は知的にもすぐれ、あらゆる面で能力を持った人物で、近代日本の建設者の一人でした。伯爵はお嬢さんが信者になることについて、全然不都合とは考えませんでした。お嬢さんの名は木末といい、無邪気で、率直で、それまで暮らしていた未信者の環境の中で、純真無垢なまま成長してこられました。やさしく、優美な日本女性らしい、高貴なタイプの方です。   一方、鐘ヶ江夫人はまだ若い未亡人で、キリスト教を信奉する心が厚く、女教師(修道女)たちに対して、いろいろな機会に大変親切な心を示しました。
     後藤伯爵とは土佐出身の後藤象二郎のことである。後藤木末と鐘ヶ江録は、明治18、9年頃築地の寄宿学校の生徒で、明治19年6月13日に築地のカテドラルで洗礼を受けた。   鐘ヶ江録の洗礼名はマリー・アグネスで、代父母となったのはドイツ人のレスラー夫妻であった。代父母とはカトリック教会で、キリスト教への入信に当たって成人洗礼志願者の信仰生活を親代りに導く信者のことをいう。   レスラーとは、カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレルのことで、外務省の公法顧問として明治11年(1878)当時の駐独公使青木周蔵の周旋により来日したドイツの法学者・経済学者である。ロェスラー、レースラー、またロエスエルとも表記されるようだ。彼は伊藤博文の信任を得て、大日本帝国憲法作成や商法草案作成の中心メンバーとして活動している。   正式に信者になった鐘ヶ江夫人は修道会の事業に積極的に協力した。 ・・・
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鐘ヶ江録子と雙葉学園
  マダム・セン・フランソワ・ド・サールは鐘ヶ江夫人について「いろいろな機会に大変親切な心を示し、特に麹町の最初の学校 le premier Cours de Kodjimachi を建てることに関して非常によく尽して下さいました。」「彼女は身を挺し、また、財産を差し出して、美しい住宅地の麹町に1軒の立派な家を借り受け、そこに毎日二人の修道女が築地から通って、フランス語と技芸の稽古をするようにとり決めました。」とも書いている。   明治19年(1886)6月には、宮中における婦人服制が洋風に変わり、上流社会の人々が洋服を着用し、洋風のマナーも心得なければならなくなり、それを学ばせるために、親は争って娘をプロテスタント系のミッション・スクールに入学させようとしていた。   外国人が暮らす築地居留地の面積は約28000坪であり、東京ドーム約2個分にあたる。当時、ここにあった新栄女学校(のちの女子学院)、13番女学校(今の青山学院)、立教女学校というプロテスタント系の三女学校も盛況であった。一方、孤児院を併設するサン・モール会の学校は貧しき人々の学校との評判があり、伸び悩んでいた。そのため、居留地の外に上流階層の日本人のための学校をつくろうとした。しかし、外国人修道女たちには、居留地外で学校を設立することは不可能であった。寄宿学校の卒業生で、信者で、富裕な日本女性の鐘ヶ江録がその役を引き受け、華族のための教場を開くことにし、私財を投じて麹町区下六番町四十五番地に立派な建物を借り、明治20年1月、ここに仏語女学校を開設し、自ら校長となった。   東京都公文書として残る、府庁への開設届けは以下のとおりである。      御届   麹町区下六番町第四十五番地 仏語女学校   右者本月十五日開校候間此段御届仕候也   右校長 鐘ヶ江 録   明治二十年一月六日   東京府知事 高橋五六殿      明治20年1月21日付の佐賀新聞には、「佐賀県士族鐘ヶ江ろく子(30)は寡婦にして富有の人であるが、欧州婦人の交際多くは仏語を用いるので、我が国に、是非とも完全なる仏語女学校を設けたいと、今度仏国公使の夫人、海軍顧問ベルタン氏の夫人等の賛成を得て、麹町区下六番町に仏語女学校を設立し、自ら校長と為り、後藤象二郎の令嬢を幹事とし、教師には仏国婦人二名を雇入れ愈よ去る十五日開校式をした。賛成の内外貴婦人等出席して頗る盛会で、既に入校申込者が数十名あった」と記事として取り上げられている。   日本初の本格的女性誌『女学雑誌』も、仏語女学校や鐘ヶ江録のことを何度も記事にしている。   仏語女学校の規則では6ヶ月を以って1学期とし、卒業期限はおよそ2年となっている。   半年後に修了式を迎えたが、その後間もなく、学校は再び築地居留地に移転し、校名を高等仏和女学校と改称した。鐘ヶ江録が提出したは休校届は以下のとおりである。      休校届   麹町区下六番町四拾五番地設立   仏語女学校   右者従来肩書ノ番地ニ開業罷在候処今回校舎新築ノ見込有之候ニ付而ハ其校舎落成迄休校致候間此段御届申候也   右校長   芝区三田四国町二十一番地寄留   佐賀県士族   鐘ヶ江録   明治二十年九月六日   東京府知事 高橋五六殿      鐘ヶ江は、築地の高等仏和女学校の校長ではなかったが、実際にはその勤めを続けていた。その後、鐘ヶ江からは再開届はでていないが、サン・モール修道会は23年後、麹町六番町の仏語女学校のあった場所に雙葉高等女学校を設立している。 蒲原有明の自伝小説の中の鐘ヶ江録子
  詩人蒲原有明は自伝的小説『夢は呼び交わす』(昭和22年出版)の中に、鐘ヶ江録子のことを書いている。 ・・・
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鐘ヶ江録子と『大肥前』
    『大肥前』という、1931年(昭和6)から1994年(平成6)まで、60年以上、古澤一次郎氏の個人経営のによって続いた郷土雑誌があった。この雑誌は、肥前出身で郷土を離れて暮らす人々に、故郷の便りを届ける重要な働きをしていた。 ・・・
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   鐘ヶ江晴朝について
  鐘ヶ江録子の夫晴朝については、葉隠研究76号に書いているとおりである。 ・・・
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鐘ヶ江夫妻の墓地
  2012年10月、青山墓地の鐘ヶ江夫妻の墓を西村氏と一緒に訪ねた。西村氏の話では灯篭や柵など随分整理されたようだとのこと。確かに、西村氏が1992年3月20日に墓地を写した写真とは様相が大きく異なっている。 ・・・
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  参考資料
  佐賀新聞 明治20年1月21日付
  佐賀近代史年表明治編 上巻(佐賀近代史研究会編)
  有田歴史民俗資料館報『季刊 皿山』42号 平成11年6月1日発行
  『夢は呼び交わす』蒲原有明著
  『信仰と教育と サン・モール修道会 東京百年の歩み』渋川久子・島田恒子共著
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※詳しくは『葉隠研究』77号をご覧ください