こぼれ話H 鐘ヶ江晴朝の調査研究


  佐賀出身の鐘ヶ江晴朝という明治時代初期の医者について興味を持った私は、何か情報が得られるかもしれないと思い佐賀医学史研究会に入会した。鐘ヶ江晴朝は佐賀では名前さえ知られない程注目されていなかったが、面白い人物のようだから、総会で研究報告をしてみてはどうかと誘いを受け「鐘ヶ江晴朝の調査研究」と題して、昨年12月の佐賀医学史研究会総会で報告することとなった。これを機に情報が集まってくることを期待し、そのいきさつと、報告の内容を紹介する。

   鐘ヶ江晴朝の妻録子
  私が鐘ヶ江晴朝を知る発端は、その妻録子であった。   大隈重信の義弟、江副廉蔵について調べていた私は、聞き取り調査の中で、廉蔵の娘、米鶴と静子は、東京築地にあった学校へフランス語を学ぶため、2頭立ての馬車で通っていたことを聞いた。   この学校は、カトリック系のサン・モール修道会が明治20年1月麹町区下6番町に開いたミッションスクール、仏語女学校のことで、現在の学校法人雙葉学園の前身であった。東京府庁に出された開設願の名義人は、校長鐘ケ江録で、費用のいっさいを録が負担したようだ。   このことは、明治20年1月21日付の佐賀新聞でも、佐賀県士族鐘ヶ江ろく子(30)は寡婦にして富有の人であるが、欧州婦人の交際多くは仏語を用いるので、我が国に、是非とも完全なる仏語女学校を設けたいと、今度仏国公使の夫人海軍顧問ベルタン氏の夫人等の賛成を得て、麹町区下六番町に仏語女学校を設立し、自ら校長と為り、後藤象二郎の令嬢を幹事とし、教師には仏国婦人二名を雇入れ愈よ去る十五日開校式をした。賛成の内外貴婦人等出席して頗る盛会で、既に入校申込者が数十名あったと記事として取り上げられている。   また、詩人蒲原有明の記述によれば、有明が全身の吹き出物に苦しんだ11歳のとき、それを知った父とは同国出身の医家の若い未亡人が、自分が京橋でやらせている塩湯はどうだろうかと勧め、自ら親身な介護を施してくれたので良くなったとある。有明は明治9年東京麹町生まれ、父は佐賀藩士で明治新政府の官吏であり、この未亡人が鐘ヶ江録子である。   私は、幕末明治の頃の佐賀について調べている中で、鐘ヶ江録子について調べている西村哲郎氏と知り会った。   西村氏の調査によれば、録子は1851(嘉永3)年生まれで、1887(明治19)年に東京府知事に宛てに、芝三田四国町21寄留、佐賀県士族としてフランス語学校開設願書を提出している。夫鐘ヶ江晴朝は、1869(明治2)年、家屋敷を整理した資金で東京医学校に入学し医術を学び、明治7年には宗十郎町(現銀座7丁目)に病院を開設し、多くの人々にセツルメント的な診療を行ったが、病を患い、1881(明治14)年に志半ばで世を去ったとのことだった。   2012年10月、青山墓地の鐘ヶ江夫妻の墓を西村氏と一緒に訪ねた。晴朝の墓の裏には碑文があったが、風化のため、はっきりと読み取ることができなかった。しかし、西村氏は、随分以前にお墓を訪ねた際、碑文を写し書きされており、それを頂くことができた。以下にその碑文を紹介する。   鐘江晴朝長崎県士族也小有気慨好医術明治二年遂抛家資学東京大学其七年開業於宗十郎町人或貧困患病者為恤而療之年率不下千人曽日医銭非吾志也将天有所為焉明治十四年二月十四日罹病不起嗚呼   友人相良頼善 撰并書

   日本初の海水浴場の開設
  欧州では、医科学の発達により海水の成分分析が行われ、海水の医学的効果が解明されたことで海水浴が流行し、海浜保養地ができた。   日本で海水浴が知られるようになったのは、蘭方医林洞海が翻訳したオランダ語の薬学書からといわれている。林洞海(1813〜1895年)は、幕府奥医師。長崎でオランダ医学を学び、1858(安政5)年、大槻俊斎や伊東玄朴らと、お玉が池種痘所を設立している。   海水浴は、日本では「潮湯治」、「潮湯」として明治以前から健康に良いことが経験的に知られていた。海水浴場を開くには、休憩所、上がり湯、トイレ等の設備が必要で、海浜は国が所管する所であるので、建築物や工作物の築造には、事前に責任者を定め、海浜の利用許可をとることが必要であった。   ところで、日本で最初に開設された海水浴場は、1880(明治13)年に開設された倉敷市沙美海水浴場とされているが、この説が近年覆された。   東京都公文書館で、明治10年12月19日付「芝浦海水浴」開設のための「地所拝借願」が発見されたのだ。申請者は、現住所第一大区九小区惣十郎町五番地の長崎県士族鐘ヶ江晴朝。原籍は長崎県四拾大区弐小区佐賀郡点屋町五拾番地となっている。この申請は一連の手続きの末受理され、明治11年9月15日、芝新濱町弐番地(現在、東京都港区芝浦1丁目 東芝本社ビルの隣接地)に芝浦海水浴場が開業した。   また、明治11年5月24日付の読売新聞には、宗十郎町の長崎県士族鐘ヶ江晴朝は、リウマチには海水浴が薬になるので、芝濱松町の海岸へ海水浴場を建てるために1万1800坪ほど拝借したいと、このほど願い出たとの記事がある。   これらのことについて、鈴木伸治氏が「日本最初の海水浴場は芝浦海岸で開設」と題して日本医史学会関西支部の『医譚』(2012年7月25日発行)で発表されていた。   鐘ヶ江晴朝が長崎県士族となっているのは、明治9年に現在の佐賀県全域が長崎県に併合され、佐賀県が復活したのは明治16年であるからだ。 ・・・
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   佐賀に残る足跡
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   「好生館」と鐘ヶ江晴朝
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   鐘ヶ江晴朝の功績
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  参考資料
  読売新聞 明治11年5月24日付
  佐賀新聞 明治20年1月21日付
  佐賀近代史年表明治編 上巻(佐賀近代史研究会編)
  有田歴史民俗資料館報『季刊 皿山』」42号 平成11年6月1日発行
  佐賀県教育史 第1巻 資料編(1)
  佐賀県教育史 第4巻 通史編(1)
  東京商人録 原版は 明13年7月 大日本商人録社出版
  城下の医史跡めぐり(2) 平成24年12月2日 徴古館
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※詳しくは『葉隠研究』76号をご覧ください