こぼれ話G 佐賀と上海

江副廉蔵と上海
 幕末明治の頃の佐賀のことを調べていると、上海が度々出てくる。  幕末に長崎でフルベッキに学んだ江副廉蔵についてみてみると、佐賀県歴史人名事典によれば「明治2年窃に脱出して上海に到り、三松洋行に投じて貿易行に従ひ、偶々新嘉坡に於いて博覧会開設せらるるを機とし、有田陶器を出品して大に我美術工芸品の聲譽を宣揚」となっていた。  東京青山墓地の廉蔵の墓碑には「明治二年年二十二資煤炭陶器出洋販鬻于清國上海于香港会星?坡開博覧会即以陶器陳列適暹王来遊観賞本邦陶器知於海外以此為嚆矢」と書かれている。約せば「明治二年、二十二歳で、石炭と陶器を資本として、海外に出て販売した。清国の上海や香港でそれを行っていると、たまたまシンガポールで博覧会が開かれたので、陶器を出展した。その時ちょうどシヤム(タイ)国王がやってきて観賞していった。我が国の陶器が海外に知られたのはこれがその始まりである」となる。  江副廉蔵の子孫を訪ねて聞くと「どうも長崎で事件を起こしたがために、義兄である大隈重信の計らいで上海に逃げたのではないか」と言われた。  佐賀県歴史人名事典の「窃に脱出して」と言う表現から、そのとおりかもしれないと私も思った。  江副廉蔵が亡くなった大正9年に発行された「佐賀郷友91号」の「従六位江副廉蔵小傳」には、「慶応元(1865)年長崎致遠館で、フルベッキについて英語を学び、その後、佐賀藩立海軍寮で英語を教授し、1869年(明治2)、佐賀藩軍艦電流丸艦長真木長義に従って、三重津港(佐賀市諸富)から長崎に航海したとき、一夜窃に脱艦し、英船に搭して、上海に密航し、英租界に於ける三松洋行に投じて、その業務を援助し大に努力する所あり」と書かれていた。

  佐賀と幕末の上海
 1842年に開港された上海は、イギリス,フランスを中心とする西欧列強の手で租界が形成され、幕末の頃には既に国際都市であった。  開国を余儀なくされた幕府は、1862(文久2)年、遅ればせながら国際市場の調査のために貿易船「」で遣清使節団を上海に派遣した。一行は水夫までいれて総勢51人。佐賀藩からは幕臣の従者として納富介次郎、深川長右衛門、山崎卯兵衛、中牟田倉之助が参加し、同行者には長州の高杉晋作、薩摩の五代友厚もいた。  初めて外国の地を見た乗組員たちは、黄浦江が見渡せないほど船のマストが林立していたとの報告書を書いている。  彼らは上海に2ヶ月間滞在し、亡国の危機にある清国の実情と西欧列強の国力を目の当たりにして藩を超える国民意識を強くし、日本を取りまく情勢への危機感を抱いて帰ってきた。  納富介次郎は、小城藩の柴田花守の次男に生まれ、佐賀藩士の納富六郎左衛門の養子となり、上海を見聞したときは18歳であった。  中牟田倉之助は、藩校弘道館で儒学、数学を学び、選ばれて蘭学寮へ転じ、1856(安政3)年20歳で長崎海軍伝習所へ入所し、得意の数学を生かして航海術を学んでいた。   高杉晋作の日記には「中牟田は航海術を心得ており、英語もできる。長崎と上海を結ぶ航路を調べるようだ」と書かれており、二人は特に気があったという。   当時の上海は英・仏・米をはじめ諸外国の租界が広がり繁栄し、欧米諸国の商船や軍艦で港は埋め尽されていた。しかし、税関である江海関は外国の管理下にあり、清国が欧米の植民地となりつつあった。   ともに20代半ばの中牟田と高杉は約2ヶ月間の上海滞在中行動をともにし、中牟田が米英国人と、高杉は中国人と筆談で会話し共同で情報収集に努めた。このときの見聞録として、中牟田は『上海行日記』、高杉は『游清五録』を残している。   精力的に視察した中牟田が持ち帰った書籍や短銃は、佐賀藩の科学技術への関心をさらにかき立てることになった。   また、鍋島閑叟側近の古川松根の義兄で歌人である豆田三兵衛丘由は、1868(明治元)年8月から10月にかけ、上海に亡命した。当時丘由は60歳である。   京都から故郷佐賀に帰ってきた丘由は、唐津高島から石炭とスルメを積込んで上海に向かう大木丸に仲間とともに乗り込み上海へ渡り、その時の様子を書き残している。   当時の上海は、南京条約により開港され24年が経過していた。「上海には24カ国が西洋人館を建て、これに日本の肥前の館を加えて25カ国の館があった。日本は上海に近い処では2,3番目だが館の小ささは第1番。しかし、わずか三人の店員で一日の売り上げは40両。もし、ここに日本の産物を数多く並べ、20人で商いをするなら日本は3年以内に富国になる。商法には損得があるが、ここ上海への出品には損することなく利益ばかりで、日本館名を三松号という」と書き残している。   ところで大木丸とは、長崎に「佐嘉商会」を設立し、肥前の焼物の直輸出の道を開いた有田の久富与次兵衛の息子与平が、小城藩に建言して購入させ、自ら操った400dの英国船であり、元の名はドルフィン号である。久富の後は、有田の田代紋左衛門が肥前の焼物貿易を独占していた。   1867(慶応3)年には、オランダ領事の斡旋で英租界小東門外三馬路に「佐嘉商会上海支店」が開かれているので、三松号とはその店かもしれないし、江副廉蔵が投じた「三松洋行」のことだと私は思った。   また、1850(嘉永3)年肥前鹿島生まれの牟田豊は、1866(慶応2)年には長崎での塾で英語を学び、1868(明治元)年7月、佐賀藩の命で小城藩の帆船大木丸に乗り込み、上海に渡り、佐賀藩が経営する商店「三松号」の開設に従事したことが、1918(大正7)年発行の「在京佐賀の代表的人物」に書かれていた。

   上海からの情報
  佐嘉商会上海支店、三松号と田代屋の関係が気になっていた昨年1月、佐賀新聞に「上海に最初にできた日本の商店は、田代屋で、1868(明治元)年、上海の英国領事館近くに開業した有田焼の店」と、中国の外国語学院の教授が語ったと、上海進出の先駆者について書いてあった。   更に、上海に住む日本人向けの情報誌「Whenever上海」に、現在上海で日中関係史を研究する陳祖恩氏が、「田代屋」について書いているとの情報を得た。   陳祖恩著書『???洋人:近代上海的日本居留民』を取り寄せて見て驚いた。「1869(明治2)日本民部省が調査のために品川忠道・斉藤麗正・江島廉蔵・江口三郎助・城島謙蔵・田尾二郎らを上海に派遣」と書かれていた。   江副廉蔵の墓碑にある、明治2年の上海行きと符合するので、江島は江副の間違いだと確信し、著者の陳祖恩先生のお話を聞きたいと思った。しかし、陳先生とどうやって連絡を取ったらよいのか分からず、上海との交流に力を入れている佐賀県庁を訪ね相談してみたところ、労をとっていただき、陳先生と連絡が取れ、先生が上海を案内してくださることが可能であることがわかった。

   歴史探訪上海旅行の実現
 ちょうど、その頃、佐賀空港から上海便が就航し、最も安い航空券は片道3000円と大々的に宣伝していたので、「歴史探訪上海ツアー」を思い立ち、関心のありそうな周りの人々に呼びかけたところ、佐賀から7人、東京から4人の旅行団ができた。  東京からの4人は江副廉蔵の孫一人と曾孫三人であり、佐賀からの7人のうち3人は江副廉蔵の家系と関わりがある。 ・・・
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時空を超えた交流 ・・・
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※詳しくは『葉隠研究』75号をご覧ください