こぼれ話F ゴッホと佐賀の関係

日本初公開 ゴッホの『ヒヤシンスの球根』
  二〇一二年七月、長崎県佐世保市にあるハウステンボス美術館で、「幻のゴッホ展―パリ時代のゴッホ、空白の二年間―」が開催された。この展覧会で、一躍注目を集めたのは、日本で初公開の『ヒヤシンスの球根』。なぜならば、この絵は「起立工商会社」と墨書きされた板の裏に描かれており、日本とゴッホの繋がりを雄弁に証明してくれるからだ。   
起立工商会社とは、一八七三年(明治六)のウィーン万国博覧会を契機に起こった会社である。ウィーン万博は明治政府となって初めての博覧会であり、日本にとって国際社会へのデビュー戦であったので政府の力の入れようは大変なものであった。名古屋城の金の鯱、浅草観音の大提灯、鎌倉大仏の模型などを持っていくことを決め、また、大工、庭師を派遣し会場内に日本式建築と日本庭園をも造った。   
ウィーン万国博覧会終了後、好評を博した日本庭園をイギリスのアレキサンドル・パーク社がそっくり買い取りたいと申し出、博覧会事務局に商品の保証を求めてきた。しかし、政府として参加している博覧会事務局は関与できず、「茶商」して派遣されていた松尾儀助が会社をつくる事を提唱し、政府の後押しを受け「起立工商会社」を設立し、自らその社長となり売却した。   
ウィーン万博の総裁は大隈重信、副総裁は佐野常民であり佐賀出身のコンビであるし、松尾儀助もまた佐賀出身である。以後、起立工商会社は政府と密接な関係を持ち、漆器、陶器、銅器、織物縫物類、寄木細工、竹細工、小間物(象牙細工、籐細工、扇、団扇、手遊類)、茶、紙等を取り扱い、輸出した。これらの品々は、西洋の製品を真似たものでなく、日本の伝統的な形状や図案にのっとり、精良、丈夫でしかも廉価な物であった。起立工商会社は本社を東京銀座に置き、一八七七(明治十)年にはニューヨークに、一八七八年にはパリにも支店を開いた。   
起立工商会社と墨書のある木製の楕円形のパネルの裏側に、ゴッホが描いた「ヒヤシンスの球根」と「三冊の小説」の絵が、現在残っている。これらの絵を所蔵する、オランダのファンゴッホ美術館では、このパネルは"Japanese tea box"であると説明している。一枚板なので茶箱そのものではなく、輸出品の茶箱に付けられたタグではないかと私は思う。このパネルは、日本びいきだったゴッホが、起立工商会社パリ支店を訪ね、手に入れたと考えられる。
  
ゴッホと起立工商会社
   フィンセント・ファン・ゴッホは、一八五三年にオランダで生まれた。ゴッホについての研究は進んでおり、「ヒヤシンスの球根」と「三冊の小説」は一八八七年一月から二月に描かれたことがわかっている。   ゴッホのパリ滞在期間は一八八六年二月から一八八八年初めまでの約二年間。芸術の都パリでゴッホは試行錯誤を続けながら絵を学んでいた。ゴッホの研究は、弟のテオとの膨大な手紙のやり取りを分析し、多くがわかっている。テオはゴッホのよき理解者で、援助者であった。二人がやり取りした膨大な量の手紙は、彼らの死後、テオの妻ヨーが整理し、二人の往復書簡集を出版している。ゴッホは日本の浮世絵に大きな影響を受け、ゴッホの手紙には「日本」という言葉が頻繁に登場し、彼の心の中の日本は「夢の国」そのものであったようだ。そんな彼が浮世絵を取り扱っている起立工商会社パリ支店に出入りしたことは容易に想像できるが、パリでのゴッホはテオと同居していたために、この間の手紙のやり取りはほとんどなく、詳細はわからない。

幕末の茶貿易
  起立工商会社社長の松尾儀助は、ウィーン万博に派遣される以前は長崎で茶を改良して海外へ輸出することを目的に製茶商をしていた。長崎の茶商といえば、幕末の志士たちに多大な援助を惜しまなかったといわれる大浦慶が有名である。大浦慶は「長崎港製茶輸出経歴概略」と題する長崎県に提出した上申書の中で幕末の茶貿易のことを次のように書いている。   一八五三(嘉永六)年、肥前国藤津嬉野の製茶の見本を英米アラビアに送って欲しいと、長崎出島のオランダ商人テキストルに依頼したところ、約三年後、イギリス商人オールトから膨大な量の茶の注文が来た。当時、お茶は自家用、国内の日用品として製茶しているだけであったので、量を集めることがとても大変だった。そのため、肥前国嬉野・彼杵大村・筑後国柳川・福島、豊後国、肥後国八代・人吉、薩摩国川内、日向国から茶を集めて回り製茶量一万斤を得て、一八五六(安政三)年、米国に輸送した。当時、一万斤を集めることは、今(明治一六年)の数十万斤を購入するよりも難しかった、と。   また、大浦慶は茶園の開設を筑後・豊後・肥後・日向地方の有志者に勧奨したという。茶の木は種から育てれば六〜七年で成木になり、長崎県史によれば、一八六三年(文久三)の長崎港主要輸出品の第一位は茶であり、価格は十七万一四九三ドルで総輸出金額の18.5%を占めています。当時、海外から注文が殺到し、輸出用商品がなくなるほどであった。明治十年頃には、茶は生糸に次いで日本全体の輸出金額の20%前後を占める重要な輸出品に成長していた。   茶の貿易は、お慶のアイデアによるところが大きい。松尾儀助は一八三六年生まれであり、大浦慶の最初の茶貿易の頃は二十歳である。長崎で茶商として茶貿易に取り組む彼らの間には交流があったにちがいない。

日本茶の伝来と嬉野茶
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海外に知られる起立工商会社
  起立工商会社はアメリカでは、"The first Japanese Manufacturing and Trading Company"と呼ばれている。
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松尾儀助と煙草店「菊水」
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真崎仁六と三菱鉛筆
  起立工商会社には佐賀出身の人がたくさん関わっている。そのうちの一人、三菱鉛筆の創始者、真崎仁六を紹介する。
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※詳しくは『葉隠研究』74号をご覧ください