こぼれ話E 佐賀藩の科学技術と電信

昨年、佐賀新聞の「幕末維新のさがんもん」の欄に志田林三郎について書いた。 これを読まれた電子情報通信学会の方より、今年5月、福岡で開かれるアンテナ・伝播研究会で特別講演をしてほしいと連絡が来た。
 「幕末維新のさがんもん」は幕末維新の頃の佐賀の人物について、四週毎に紹介する企画で、2010年1月より始まった。  佐賀新聞の担当者が、私のブログ「幕末・明治 肥前こぼれ話」を見つけて持ってこられた企画で、人物の選定も内容も私に任せられた。  ブログは毎日更新していたので、四週毎の記事ならば楽勝だろうと思っていたが、結構大変であった。
 志田林三郎はこの記事を書くために取材をし調べた人物であったので、特別講演とは荷が重過ぎると、はじめはお断りした。  しかし、学会の方たちは日本の電信の歴史について知らないので話を聞きたいと、あまりに熱心に言われるので根負けをし引き受けることとなり、  講演のタイトルは「佐賀藩の科学技術と電信」とし、石丸安世と志田林三郎について話すことになった。
 改めて調べようとしたところ、最初からつまづいた。手軽にインターネットで石丸安世について調べたところ、生年は天保10年(1839年)となっていた。  しかし、佐賀県歴史人名事典によれば天保7年6月生まれとなっている。  また、「佐賀県立佐賀城本丸歴史館 研究紀要 第4号 2009年3月号」の多久島澄子さんの論文では石丸安世の系図と年譜が掲載されており、  誕生日は天保5年6月21日となっていた。日本英学史学会の『英学史研究』第42号には、ストラスクライド大学日本人留学生一覧があり、  これには、留学年1866−67、石丸虎五郎(安世のこと)年齢32とあるので、天保5年生まれが正しいと思った。石丸の生年が気になったのは、  1838年生まれのトーマス・ブレイク・グラバーとの関係が、次の時代を切り開く若者同士の交流であったことを確認したかったからである。  苦労しながら、何とか講演の準備ができた。内容は以下のとおりである。
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佐賀藩の科学技術と電信
佐賀藩について
(1)長崎警備
 江戸時代の日本は、長崎港に築いた出島で中国・オランダとの交流以外は禁止する鎖国政策が長く続き、国内の人々は世界の動きと切り離され、  平和で安定した時代であった。長崎港に近い佐賀藩は、福岡の黒田藩と長崎を警備するという重要な役割を負っていた。
 18世紀後半にはヨーロッパでは産業革命が起こり、西洋諸国は急速に近代化し、資源と市場を求めて世界各地に進出をはじめ、日本近海に荒波がたってきた。  そんな中で、1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げ国籍を偽り、長崎に入港し、人質をとって、  薪や水や食料を要求するという事件が起こった。結局、長崎奉行は要求を呑み、2日後には人質は解放され、フェートン号は悠々と長崎港から出て行った。  その晩、長崎奉行は切腹し、このとき警備を担当していた佐賀藩には非難が集中し、佐賀藩士16人が切腹した。
 幕府は、外国船(清、オランダ以外)が日本に通称を求めて来航する場合、「薪水給与令」(1806年)により、穏便に出国させる方向性を打ち出していたが、  日本近海に外国船の出現が相次ぎ、理由のいかんを問わず、外国船はすべて日本に近づけないという「異国船打払令」(1825年)を発令した。  しかし、欧米諸国は競ってアジアに進出し、中国ではアヘン戦争が勃発し、英国に清国が惨敗した。驚愕した幕府は政策を転換し、  再び「薪水給与令」(1842年)を発令し、外国船を速やかに撤去させることにした。
 長崎警備は、大砲などの近代兵器を装備した外国船の脅威に最前線で立ち向かう装備を考えねばならなくなり、  佐賀藩は1851(嘉永4)年、単独で長崎港の入り口の伊王島と神ノ島に砲台を築くことを決行した。当時の佐賀藩は、  外国人を撃ち払って国内に入れない攘夷の最先鋒の藩の一つであった。
 一方、長崎警備は、中国、オランダを通じて、諸外国の情報を得ることができ、欧米諸国の技術がいかに進歩しているかを佐賀藩は知ることができた。

(2)藩政改革と人材育成
 今も名君と慕われる鍋島直正が15歳で藩主となった時、佐賀藩の財政は破綻寸前であった。  直正は役人を5分の1に削減し、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさ、磁器・茶・石炭などの産業を育成し、交易に力を注ぐ財政改革を行い、財政を改善させた。  また藩校弘道館を拡充し、優秀な人材を育成し登用するなどの教育を改革し、出自に関わらず有能な家臣たちを積極的に政務の中枢に登用した。
 1851(嘉永4)年には蘭学寮を設置した。幕府が洋学研究所を設けたのはその4年後で諸藩もそれに続いた。
 しかし当時、「蘭学は医者のやることだ」として蘭学寮は人気がなかった。後に歴史学者になった久米邦武は「嫌がる者二、三十人ばかりを無理に勧めて学ばせた」  「藩公(直正)命令で強制しなければ、だれも自ら進んでやる者がいなかった」と述懐している。  自ら望んで蘭学に進んだのは「漢学だけではだめだ」と自覚していた大隈重信くらいだったらしく、学問といえば漢学の時代に選ばれて蘭学寮に進んだ秀才たちは、  周囲の侮蔑(ぶべつ)に耐えながら勉強したと伝えている。
 蘭学寮の就学年限は二年間で、自学自習が基本。  わずかな教材で読解力を付け、物理や化学の専門書に挑み、一冊の辞書を数十人で奪い合うように学び、蘭学を吸収していった。

(3)ペリー来航と英学導入
 そんな中、1853(嘉永6)アメリカ海軍のペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀沖に現れ江戸幕府を震撼させた。  翌年再来したペリーは、幕府に電信機を献上し、ペリーは電線を1km程引き、公開実験をおこない、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。  このとき、日本人が電信実験にきわめて強い関心を示したことが、ペリーの遠征記にも書かれている。
 1854(嘉永7)年3月、日米和親条約によって日本は下田と函館を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。  1858(安政5)年7月日米通商修好条約を始めとして、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの五カ国と条約が締結されると、  本格的に英語の通訳を養成する必要が生じてきた。
 1857(安政4)年に、幕府は長崎に「語学伝習所」を設立し、1858(安政5)年7月、英語に特化する形で「長崎英語伝習所」と改称された。  生徒は通詞や地役人の子弟であり、教師は長崎海軍伝習所のオランダ海軍軍人や、英国人のラクラン・フレッチャー(Lachlan Fletcher、後の横浜領事)らが務めた。
 1865(慶応元)年、佐賀藩も、もはや世界に通ずる言葉はオランダ語ではなく英語だと痛感し、長崎に英学校を設立した。  この頃、長崎にいたオランダ系アメリカ人宣教師、フルベッキが、英学校幕府直轄の英学校と佐賀藩の英学校で教鞭をとった。  フルベッキに学んだ生徒には佐賀藩士の大隈重信、副島種臣、石丸安世(虎五郎)らがいた。

2.石丸安世
(1)英語の達人
 石丸は、佐賀藩随一の英語の達人で、貿易などで藩の英語通訳として長崎に赴任し、外国人居留地で情報収集も担当していた。  彼は長崎滞在中、有田の焼物の貿易を独占していた、有田の富豪久富家が長崎に1853(嘉永6)年に設立した「佐嘉商会」に身を寄せ、  ここで有田の若者等と親しくなった。
 1863(文久3)年の下関戦争、薩英戦争では、石丸は英字新聞からも情勢を読み取って、戦闘の様子や損害について正確な報告を送り続けた。  『鍋島直正公伝』には「石丸が英語を上手に操り、馬渡八郎らもいたので、幕府の通訳に頼らずに英米国人と直接対話できた。  このため貿易では常に優先権を握っていた」と書かれている。

(2)大英帝国へ密航
 1865(慶応元)年、石丸は同僚の佐賀藩士馬渡八郎と共に、親交のあったグラバーの手引きで貨物帆船チャンティクリーア号に乗り込み、  「世界の工場」と呼ばれていた大英帝国へ密航した。当時密航は死罪であった。  後にグラバーは「鍋島直正公に頼まれて二人を英国に送った」と証言しており、これは藩主自らが関与した密航であった。
 石丸はグラスゴウでアンダソン・カレッジに学び、理工系の知識を身につけた。アンダソン・カレッジは現在のストラスクライド大学である。  同大学には、1866−1867 石丸虎五郎 32歳と、留学生の記録が残っている。
 帰国後は明治政府に入り、工部省の初代電信頭となった。

  (3)日本の電信の歴史
 モールス信号を扱う電信機は, 1850年代には 長崎の出島商館に持ち込まれていた。  ヨーロッパでは早くから国際電信網の敷設がはじまり、1871(明治4)年には ヨーロッパからシベリアを横断する電信線が完成した。  このような背景から デンマーク系のグレート・ノーザン・テレグラフ(大北電信会社)が、長崎−上海間、および長崎−ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設し、  国際通信が開始され、日本と世界が即時に情報交換ができるようになった。
 現在、大浦天主堂下、長崎全日空ホテルの敷地内に フェンスに囲まれて「国際電信発祥の地」「長崎電信創業の地」「南山手居留地跡」と   石碑が3本 並んで建っている。   当時国際電信回線の開設を急いだのは国内居留外国人が母国との通信を強く望んだことによる。
 一方国内では、1869(明治2)年、東京?横浜間に電信架設が始まり、東京から横浜まで、約32kmに電柱593本を立て、初めて電信が実用化した。
 国際電信が開始された時点では, 長崎からの電報は 外国に通じていても, 東京にはつながっていなかった。  グレート・ノーザン・テレグラフは、ケ−ブルを横浜まで延長したいという意向だったが、明治政府は国内通信網は自国で構築すべきであるとの見解を示し、  突貫工事の末、長崎横浜の電信架設を完成させ、当時日本で一番長い電信線で結ばれた長崎電信局と東京電信局との間で  明治6年(1873年)4月29日九州最初の国内電報の取扱がはじまった。

(4)長崎−横浜間の電線架設工事
 工部省の初代電信頭として、「破天荒の大事業」とも呼ばれたこの長崎−横浜間の電線架設工事を担当したのが石丸安世であった。
 日本で電信が始まった当初、電線の架設に必要な碍子は英国直輸入で、値段は高いが品質は悪かった。  そこで、有田のことをよく知っている石丸安世は、有田の磁器で碍子が作れないかと、当時の有田のリーダーの一人であった八代深川栄左衛門に  磁器碍子の製造を依頼し、国産化に成功した。
 しかし、庶民には未知の技術、電気の姿は見えないため「魔術だ」というデマも広がり、電柱を倒すなどの妨害も相次、工事は難航し、  1871(明治4)年の着工より2年後の1873(明治6)年に完成した。
 余談であるが、碍子の製造を始めた頃、八代深川栄左衛門は、優れた美術工芸品を製作することを誇りとする有田の人々から、  名のある窯焼きが美術的価値の無い碍子を作ることは伝統に反すると冷笑された。  研究努力の末、碍子の製造に成功した八代深川栄左衛門は、後に香蘭社社長となった。
 石丸安世はその後、大阪造幣局長や元老院議員などを務めたほか、私塾、経綸舎を開いて後進の育成に努めた。  高取伊好、志田林三郎、中野初子らは石丸の門下生である。

3.志田林三郎
(1)多久の神童
   電気学会の創設者志田林三郎は、1855(安政2)年、佐賀藩多久領(現在の佐賀県多久市)に生まれた。  多久領は、多久家という地方豪族が永く治めてきたところで、多久家は代々学問を重んじ、国の重要文化財となっている孔子廟(多久聖廟)を建立し、  九州最古の学校といわれる東原庠舎(とうげんしょうしゃ)を建てて、村の人々に学問を奨励していた。
 林三郎の父、重蔵は身分は低かった。学問を好み、私塾を開いて子どもたちに勉強を教えていた父は、林三郎が生まれて100日余りで病没したため、  母フミが、林三郎を含め3人の子どもを一人で育てなければならなかった。
 フミは、ほどなく饅頭屋を始めた。幼い林三郎も母を助け饅頭を売った。  林三郎の代金計算の速さと正確さに大人たちは驚き、饅頭屋に賢い少年がいるとの評判が立ち、大人たちはわざと饅頭代をごまかし、  それを林三郎が見破るのを見て楽しんだという。
 1860(万延元)年、林三郎は、地元の庄屋である木下平九郎に読み書きそろばんを教わった。
 多久役所の日誌「御屋形日記」、万延元年九月七日には、 「算術の稽古をしたこともないのに、市でにわかにできない取引の計算などを暗算でたちどころにやってしまう。 難しい法算などはやり方を知らないので解けないこともあるが、そのときは寝食を忘れて没頭するなど、神童というべきまったく稀な子どもである。 算術を学ばせれば格別御用に立つこともできるのではないか」という上申が出され、衆議されたことが書かれている。
 結果は、算術だけ熟達しても、文学(儒学)を心得なければ本当の役には立たない。  当分は文学を学ばせたいと、筆、紙、墨を買う資金を毎年与えることになった。その額は、現在の価値で5万円程度である。
 1862(文久2)年、林三郎は東原庠舎上田町分校に入学した。時の領主、多久茂族(しげつぐ)にも面会し、居並ぶ重役たちを前にして、  臆することなく開平・開立の質問に答え、一堂を驚かせたという。
 1866(慶応2)年、数え年12歳にして「漢書」や「史記」読みこなし、東原庠舎本校に入学した。
 1870(明治3)年、東原庠舎を終了後、英語学校で学んだ後、明治政府によって設立された工学寮に入寮した。
 1873(明治6)年、工学寮の第一回の入学試験が行われ、20人が官費生として選抜された。第一期官費生20人の中には、高峰譲吉(化学)、志田林三郎(電信学)、  曽禰達蔵(造家学)、麻生政包(鉱山学)、南清(土木学)らがいた。入学試験では高峰が首席だったが、在学中ほどなく志田が首席となったという。

(2)世界的な学者との交流
 工学寮は1877(明治10)年、工部大学校へと改組され、教育機関として充実して行く。  工部大学校はスイス連邦工科大学をモデルとして作られ、教授として若い英国人科学者が選抜された。  ヘンリー・ダイヤー教頭(土木・機械)、エアトン(物理・電信)、ミルン(鉱山・金属)、コンドル(造家)、ダイバース(化学)、ペリー(土木)などだが、  いずれも優秀で熱心な科学者・教育者で、彼等は短期間で工部大学校を世界的なレベルに育て上げた。
 1879(明治12)年、工部大学校は最初の卒業生を送り出した。23人の卒業生のうち、各分野の首席11人が英国留学を命ぜられ、電信学首席の志田林三郎は、  スコットランド、グラスゴー大学のケルビン卿のもとへと向った。
 1880(明治13)年、24歳の志田林三郎は、グラスゴー大学では数学と物理学のコースで学ぶと共に、電気の実験研究に従事した。  勉学の面では素晴らしい成績を挙げ、独自の実験研究テーマとして与えられた「帯磁率(たいじりつ)の研究」に対して、  大学全体で毎年1人だけに与えられる最優秀論文賞である「クリーランド金賞」メダルを授与された。
 ケルビンは志田を殊のほか愛し、「私が出会った数ある教え子の中で最高の学生である」と称えた。

(3)電気学会の設立と記念演説
 1883(明治16)年、工部大学校電気工学科の初代日本人教授に就任した。1886(明治19)年には帝国大学(現在の東京大学)が発足し、  志田はその教授となり、1888(明治21)年、我が国第一号の工学博士号を授与された。
 また、通信官僚として新国家の電信業務を指揮する立場となっており、帝国大学教授と通信官僚を兼務しての多忙な日々が始まった。
 学術と実業、官と学とを結んで、我が国の電気科学と電気事業を発展させるために、志田は電気学会の設立を構想し、  1888(明治21)5月、時の逓信大臣榎本武揚を会長に据え、自らは幹事となって、電気学会の設立を宣言した。
 同年6月25日、東京京橋区西紺屋町の地学協会会館において、電気学会第一回通常会が開かれ、志田は学会設立を記念する演説を行った。  その内容の高さは驚くべきもので、この演説は伝説となった。なかでも圧巻は、将来実現するであろう技術として、次の9項目を予言したことである。
1. 高速度での音声多重通信
2. 遠隔地との通信通話
3. 海外で演じられる歌や音楽を同時受信して楽しめること(海外からのラジオ実況放送)
4. 山間部の水力発電で得たエネルギーを長距離送電して、大都市で活用すること
5. 黒煙白煙を吐かない電気列車や電気船舶が普及するであろうこと
6. 電気飛行船に乗って空中を散策できること
7. 光を電気磁気信号に変えることによって、映像情報を遠隔地に伝送し、遠くにいる人と自在に互いの顔を見ることができること(テレビジョン)
8. 音声を電気信号に変えることによって機械に記録(録音)し、後で自由に再生できること(録音再生装置、テープレコーダー)
9. 太陽黒点、オーロラ、気象などの観測を通じて、地電気、地磁気、空間電気の関係が明らかになり、地震予知、気象予報、 豊作凶作の予測などが可能となること(宇宙地球電磁気学の提唱)

(4) 志田林三郎賞
 志田は、健康を害し、1892(明治25)年1月、まだ36歳の若さで死去した。
1993(平成5)年、志田林三郎の没後100年を記念して、郵政省(現在の総務省)は「志田林三郎賞」を創設した。 先端的、独創的な研究によって情報通信の発展に貢献した個人が選ばれ、情報通信月間事業のひとつとして、毎年6月1日の「電波の日」に表彰されることになった。
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 私の話を、一番前の席で熱心に聴いてくださる方があった。ケルビン卿の事が出てくると身を乗り出され、志田林三郎が若くして亡くなったことに大きく落胆された。  話が終わって、質疑応答に入ると、この方が真っ先に手を上げられ、御自分が「志田林三郎賞」を受賞されたことを紹介された。  この方は、元東京工業大学教授の後藤尚久先生で、終了後も声をかけていただき「水晶の研究で文化勲章を受章された古賀逸策先生も佐賀のご出身です」と教えていただいた。
 古賀逸策という名前を初めて聞いた。この人についても調べてみたいと思う。 ・・・