こぼれ話D 屯田兵として佐賀から北海道へ渡った人々

昨年秋、ブログ「幕末・明治 肥前こぼれ話」にコメントをもらった。
母方の祖父母が佐賀の出身で、明治30年に屯田兵として北海道へ渡られたという、網走の方からだった。
初代北海道開発長官が鍋島直正であったことや、島義勇が北海道開拓の父と呼ばれていることなどから、佐賀と北海道の関係は、少なからずあるに違いないと思いながら、私は具体的なことはあまり知らなかった。
尾上氏というその方と何度かメールでやり取りしているうちに、まだ見たことがない祖父母が育った地を訪ねたいと連絡が来た。 曽祖父、岩松定助は神埼郡古賀村の江下友吉の長男で、佐賀郡為重村の岩松藤三郎の長女フミの婿となり、定助の長男が丈太郎で尾上氏の祖父という。 丈太郎は明治8年に佐賀郡新北村大字為重に生まれ、川副高等小学校を卒業し、尋常中学校入学、明治25年に新北尋常小学校訓導、本科正教員。屯田兵として北海道に移住し、網走の尋常小学校で訓導となり、後に校長になったそうだ。 祖母である丈太郎の妻ハルチヨは、小出光多とツルの長女として明治10年、佐賀市水が江生まれで、尋常小学校の助教諭として地域教育にあたった。小出光多は、佐賀藩英学の祖といわれる小出千之助の甥である。 そして母友江は丈太郎、ハルチヨ夫妻の3女として大正3年に生まれ、激動の時代を生き抜き、平成22年に96歳で亡くなられたとのことだった。
今となっては縁者を探すことは困難だろうと思われたが、初めての佐賀での先祖を辿る旅が、少しでもスムーズに行くことを願い、尾上氏が佐賀に来られる前に、下調べをすることにした。  神埼郡古賀村は現在佐賀市蓮池町に属する。蓮池は代々蓮池にお住まいの方が多い地区であるし、蓮池公民館は地域に密着した公民館であるので、何か分かりはしないかと思って公民館に行ってみた。
昭和49年に発行された『芙蓉校百年史』には、各地区の100年前の詳細な地図が載っていた。古賀に江下友吉の名を探してみたが、見当たらない。また、古賀地区は江下姓だらけであった。公民館の職員の方が、地区の古老の方に尋ねてくださったが、分からなかった。 為重村、新北村は現在佐賀市諸富町。佐賀市役所諸富支所を訪ねてみるが、現在岩松姓は諸富にはなく、地番も当時とは変わっているのでまったく分からない。 知人の協力を得、諸富にかつて岩松姓の方がいらっしゃったというところまでは分かった。 また、佐賀から屯田兵となった人々について、県立図書館に何か資料はないかと行ってみたが、探しきれなかった。
そんな中で、12月18日、尾上氏御家族が来佐し佐賀を案内することになった。 城原川沿いの古賀地区を巡り、筑後川を見て、為重へと案内し、佐賀平野の川沿いの雰囲気を味わってもらった。先祖もお参りしただろうと思われる新北神社を見て、早津江へ。筑後川を見ながら、佐賀の土地環境とは全く違う北海道の原野に入植し、大木を切り倒し家を造る事からはじめた先祖のことを思い偲ばれた。 小出千之助の遠戚に初対面され、先祖の墓参りをし、徴古館、佐賀城本丸と案内し、限られた時間の中で先祖を辿り帰られた。
尾上氏は、先祖が入植した常呂郡端野地区(現北見市)には、佐賀から10人とその家族が入植していると、端野町史から佐賀関係者の名簿を持参されていた。出身地は佐賀市2人、小城市1人、神埼市1人、白石町1人、太良町5人である。 私は屯田兵について知りたいと思い、その後、太良町社会教育課を訪ねてみた。この間あちこち調べてみても分からなかったことなので、あまり期待はしていなかったのだが、歴史民俗資料館内に詳細な資料があり、太良町史にも記述があった。以下はそれらを参考にまとめてみた。 「屯田」とは、兵士を遠隔地に定着させ、平時には農耕、非常時には戦争に従事させる制度で、北海道の屯田兵は、ロシアの侵攻に対する北の守りと北海道の開拓、治安部隊ともなる性格の組織だったそうだ。屯田兵が設定されたのは明治7年で、当初は旧武士に限られ、窮乏していた下級失業武士の救済手段ともなっていた。しかし、明治20年代になると士族屯田兵制から平民屯田兵にかわっていった。それは士族の応募が限界に達したことと、奥地の農耕の技術は士族よりも農平民が優れているからであった。明治32年に屯田兵の募集は終わった。 屯田兵は戸籍を北海道に移し、家族ともども移住しなければならず、全国から7337人の屯田兵が家族と共に移住した。屯田兵の出身都道府県別では石川県が一番多く492人。2位山形県454人、3位宮城県378人、4位鳥取367人、5位福岡県360人、6位佐賀県356人となっている。 屯田兵となった人たちには、それぞれ応募の理由はあろうが、当時の太良の小作農は大変な苦労をし、働いても土地は自分のものにならず、北海道へ行けば土台付きの家と広い土地が貰えるということで志願したようだ。
端野町史にによれば、

明治三〇年六月二日、各兵村に入植するおよそ二百戸の屯田兵とその家族を乗せた陸軍省雇傭輸送船、日本商船所有の武陽丸が、雨天の網走に入港した。五月一九日に愛知県の武豊港を出航し、神戸、宇品、門司、敦賀、穴水に寄港して西日本各地からの応募者を乗船させて宗谷海峡に向かい、オホーツク海に面した網走まで半月にわたる船旅であった。荷物は「屯田兵移住者心得」によって制限され、一戸につき三尺立方以内のもの八個以内、総重量七二貫以内で、長持、大たんす、漬物樽、ひき臼など、大型のものや破損のおそれあるものは認められなかった。 網走は六月と云うのに草木は未だ芽吹かず遠山には残雪さえ見られた。荒涼とした枯れ木の様な密林の中を、待望の地端野を目指して歩いた。チラチラ雪がふり、軍曹が命令して林の中から枯れ木を集めさせて焚火してあたったという。 端野に着くと、兵屋の多くは未完成で、柱の上に屋根だけが葺かれているといったものもあった。母屋の造りは、間口五間に奥行三問半の広さ.七・五坪の切妻造り、屋根は手割り柾葺きで入ロから間口二間の土聞を裏まで通し、裏口近くには立て流しが配置され、裏口を出た右手に便所がある。部屋は炉を切り.込んだ六畳ほどの板敷き部分と、六畳上押入付きの四畳半の和室があった。炉で薪を燃やして暖をとり、炊事もするようになっていたので屋根に煙出しをつけ、天井に板は張られていない。出入口の戸は木戸、和室の窓はむしろやまど障子、流し場及び土間は武者窓で、障子窓の外側には雨戸があった。
と、書かれていた。
故尾上友江氏は北の大地での生活を振り返り『回想七十年』と題するの手記を残されていた。家族の記録としてかかれたもので、手書き、ガリ版刷、簡易製本の冊子である。今回その冊子は県立図書館の郷土資料室に収められた。
100年以上前に佐賀から北海道へ渡った人たちの孫、曾孫、玄孫たちが、北海道にはどのくらいいらっしゃるのだろうか。おそらく佐賀から沖縄へ渡った人たちの子孫よりはるかに大勢だと思う。今後屯田兵に関して、調べてみようと思う。