こぼれ話C フルベッキの肖像画と唐通事に関して

葉隠研究第70号に、フルベッキの肖像画について書かせていただいた。 この絵を所蔵する長崎県立歴史博物館では、この絵についての情報はないとのことであったが、私はとても気になってしかたがなく、 色々な人に聞いたり、調べたりしてみた。
まず、絵そのものは大して上手ではないようで、美術の専門家にとっては興味のある絵ではないらしい。 表装に使われている更紗は大柄な模様で、南方系の更紗のようだとのこと。また、銀箔が施してある。変わった形の下駄は堂島下駄といって、 大阪堂島の米の仲買人たちが履いていた下駄で、くり歯の桐台に、畳表をつけた駒下駄であることがわかった。

また、友人の紹介で昨年、長崎の越中哲也先生にお会いした時に、この絵について尋ねてみると「あれはね、僕が集めたの。 野口さんという大工さんが、明治の頃に買った絵に表装したわけよ。これは誰?と聞くと、フルベッキといわれたから、 フルベッキとしてるわけよ」と言われ、もうこれ以上のことは分からないだろうと残念に思った。

昨年、長崎は、NHKの大河ドラマ「龍馬伝」で一躍注目され、観光客で賑わっていた。 私も、夏の暑い日に亀山社中跡のある風頭山を散策し楽しんだ。歩いて回れる範囲に史跡や施設がコンパクトにまとまっており、 よく出来た観光コースだと感心した。
越中先生の話によれば、長崎は軍都だったから、元々観光できなかったのを、戦後何にもないから観光地にしようということで、 色々と画策したとのことだった。そして、観光と歴史は別物だから全く切り離して考え、観光客の利便性を考えたコースを提供されているようだった。
越中先生のお話を聞きながら、亀山社中記念館を訪ねた折、こんな山の上で商社としての活動が出来たのだろうかと、 何気なく湧いた疑問が氷解する思いだった。

ところで私は、2年ほど前に『大隈重信と江副廉蔵』という本を出版した。 幸いにも売り切れてしまい、増刷を考え、どうせならその後の調査で分かった事などを増補しようと思い、 まとめている時に長崎の唐通事にかかわることで気になることをみつけた。

大隈重信が佐賀で活躍していた頃に、美登という妻がいた。美登については葉隠研究69号を参照していただければありがたい。美登の弟が江副廉蔵である。
江副廉蔵は、長崎にあった佐賀藩の英語塾、致遠館でフルベッキに学び、アメリカタバコの輸入で大きな財をなした後、 日露戦争戦費調達のために明治政府が煙草を専売制にしようとした時に、政府に多大な協力をした人物である。廉蔵の息子、 隆一は9年間アメリカに留学し、フルベッキの息子ウィリアムが校長をしていたアメリカのマンリュース士官学校で学んでいた。
廉蔵の妻は、久満子といい、東京の青山墓地にある久満子の墓碑には、父は諸熊大太、 母は游龍多可子と書いてあった。游龍という姓が珍しく気になったので調べてみると、長崎の唐通事の家系に游龍家があった。
游龍家の墓のある長崎の崇福寺は第一峰門と本殿が国宝になっている有名な黄檗宗の寺院で、フルベッキは長崎に来た当初、この寺に住んでいたという。 唐通事とは中国語の通訳の事である。日本語の出来る在留中国人とその子孫が一子相伝を原則として任じられ、 通訳業務だけでなく通商や外交の事務を担当する役人で、江戸時代、長崎のほか薩摩藩、 琉球王国にもいた。長崎には他にオランダ語の通訳であるオランダ通詞もいたが、幕末になり世界に通ずる言葉は英語だと認識されるようになると、 英語の通訳が必要となり、このとき唐通事たちは英語を猛勉強したそうだ。
長崎の風頭山公園の近くにある唐通事林・官梅家墓地には長崎市教育委員会によって看板が設置され、 游龍彦十郎が林道三郎を立てて、唐通事林の本家を継がせた時には幕末が迫っていたという説明があった。
林道三郎は游龍彦十郎の息子で、フルベッキに英語を学び、とても優秀な人だったようだ。林道三郎はマリア・ルース号事件の際、大活躍をしていた。

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