こぼれ話A 大隈重信糟糠の妻 美登

ブログ「幕末・明治 肥前こぼれ話」は、大隈重信の妻美登を探すところから始まった。 それまで私は美登の存在について半信半疑であった。しかし、2005年6月鹿島史談会会長である迎昭典氏の案内で鹿島市古枝鮒越にある美登の墓を訪ね、 美登が実在の人物である事を知った。
美登の存在については地元の歴史研究者の中では知られており、家系の略図も何種類か書かれていた。 それらを頼りに調査を進めていったところ色々とわかってきた。その一部はブログで紹介してきた。
そして今回、美登の写真が出てきた。これを機に、美登についてまとめてみたい。

美登は佐賀藩士江副杢之進の長女で、天保14(1843)年5月19日生まれとなっていた。
佐賀藩の御屋敷目録に江副杢之進の屋敷は、現在の佐賀市鬼丸宝琳院小路にあった。 この屋敷目録は明和年間の屋敷割りでつくられており、屋敷の住人に変更があると新しい住人の名を書いた付箋をはって重ねてあり、 7番目の住人が江副杢之進であった。 江副杢之進の墓は佐賀市与賀町の泰長院にあり、江副道保杢之進とあり杢之進と道保は同一人物である。
杢之進は、市川新兵衛の実弟で、江副家に養子に入っている。 また、長刀の達人であったらしく、鍋島直正の息女貢姫に生涯をささげ仕えた兵動綱江は、江戸詰めであった杢之進に薙刀を学んでいる。 美登は大隈重信の妻となり娘熊子をもうけたが、重信が明治政府に要人となり上京する際に離縁し、その後、鹿島藩士犬塚綱領の後妻となった。
犬塚家の記録には、美登は綱領の妻として明治4(1871)年12月15日七浦村大字音成江副杢之進長女入籍とある。 現在の鹿島市音成は江戸時代は佐賀本藩領である。そのため、杢之進は任務のため佐賀鬼丸と鹿島音成の双方に屋敷を持ち、 明治期にあって江副家は鹿島音成を拠点にしていたようである。
音成の江副屋敷の跡地には、現在小池家が建っているが、小池家は今なお「江副」という屋号で呼ばれている。 江副屋敷より100メートルくらい離れた小山にも江副家の墓地がある。
また、肥前鍋島家分限帳によれば江副杢之進は切米20石の佐賀藩士である。 物成120石の武家である大隈重信と美登との結婚は家格的には不釣合いであり、どこに接点があったのか未だはっきりしない。
犬塚家は鹿島藩の脇本陣を務める家柄である。綱領には先妻との間に長男がいた。 美登との間には夭逝した息子のほか、後に太良の村長となった綾部源橘に嫁いだ清袈裟と、美登の弟、江副保の長男英章に嫁いだ由袈裟がいる。
美登の墓は鹿島市鮒越の犬塚家の墓地にあり、夫綱領と共に眠っている。
大隈重信の長女熊子を顕彰する『大隈熊子夫人言行録』が昭和9(1934)年2月に伝記刊行会より発行され、 この言行録中の大隈熊子刀自小伝には「大隈熊子刀自は文久3(1863)年12月14日郷里佐賀に生る。故重信侯の長女にして、 母美登は江副廉蔵の姉なり。幼名を犬千代といい、後熊子と改めたり。幼時、母は故ありて大隈家を離別す。明治4年(年9歳)、 祖母三井子と共に東都に移り、爾来、両親(父重信侯、母綾子夫人)の膝下に愛育せらる。」とある。
また、大隈重信と親しかった犬養毅もこの本の中で「熊子さんは男であろうものなら老侯(重信)よりは偉かったろう。 政治家としても事業家としても大きなものになったろう。実に敬服すべき人だ」と語っている。
佐賀市にある大隈重信記念館では美登の存在を明らかにしていないが、大隈重信が創設した早稲田大学は、重信の長女熊子の母は美登であり、 大隈が維新政府出仕の頃に離別したと公表している。
『大隈熊子夫人言行録』の中には、熊子が父重信に従い佐賀に来た時に、美登に会う事を勧めた人があったが、 熊子は「私には両親ありて他に母は在らざるなり」と断った事が書かれている。
しかし、異父妹で東京に住む由袈裟は熊子と交流があり、熊子から裏木戸を開けて待っていると連絡があると、 由袈裟は熊子の好物の虎屋の最中を持って出かけて行ったと由袈裟の縁者は語っていた。
今回見つかった美登の写真と一緒に鈴木真一(横浜真砂町・東京九段下)によって撮られた熊子の写真もあった。
美登の弟で明治時代に活躍した実業家江副廉蔵は、終生大隈重信と親しくしていることからも、重信との離縁により美登は大隈家から断絶されたのではなく、 むしろ重信糟糠の妻として尊重されていたと考えるのが自然である。


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